また、春が来て・・・

2008年04月06日 風の戯言


 屋根下の水仙が咲き始め、自宅前の公園の梅が満開になっている。春は、遅れた時間を取り戻すように疾走している。
 昨日は新潟産業大学・新潟工科大学の新入生歓迎会を開いた。会長に柏崎市出身の元筑波大学学長の北原保雄日本学生支援機構理事長を戴き、地元有志で開催している。学生360人、地元ボランティア140人計500人の会場は華やぎ笑い声に満ちていた。地震やいろいろなことがあって心配していたけれど学生の数が落ちなかったのは嬉しいことだと思う。

 一仕事終わって、今日は「春のような」お天気で、庭の落ち葉を片付けたり芝桜に肥料をやったり、畑のテーブルでお昼を食べたりし、サマーベットで昼寝をしたりして、久々にのんびりした一日を楽しんだ。
 毎日がせわしなく動いていると、人生の大切なものを忘れてきたようで落着かない。だからまた春が巡ってきてこんな一日が過せるのは本当に嬉しいし幸運なことだと思う。
 
 「怒らず、恐れず、悲しまず、今日一日を元気で過せ。俺には力がある」
 週刊誌を読んでいたら中村天風のこんな言葉が目に止まった。小さな会社でも社長をしていると独善に陥る危険を避けるためにに常に自己チェックを欠かせない。まだ何かが足りないという焦りと、絶え間なく自信を持って様々な決断を下さなければならない間には微妙なバランスの海峡がある。
 「人生は侭ならぬものと、正しく自覚するとき、不自由や、不満と言うものを、少しも苦悶で感じなくなる」
 また春が来て、自分の人生で2度と繰り返すことの無い今日という一日を俺は十分に楽しんだ。どんなことでも楽しんでしまう自分の性格を馬鹿な奴と思うことが多いけれど、これはこれでいいのだろう。

赤と紅

2008年03月29日 風の戯言


 昨日は朝6時に柏崎を出て八王子のお客様に伺い、早稲田大学の佐藤教授を訪ねてきた。運転は若い社員(自分から見ると誰彼も若いのだが)2人に任せ後部座席で沈んでいた。
 早稲田界隈の桜は満開で、正に春爛漫。
 練馬から高速に乗り、春景色に見入っていたら山吹が目に飛び込んできた。日本海側と関東の季節の違いに改めて唖然とする。
 赤城高原のサービスエリアでは白梅と紅梅が咲いていた。どうでもいいことだが、赤と紅の違いが分らない。広辞苑では「赤は明るい、黒は暗い、から」とあり「赤は緋色・紅色・朱色・茶色の総称」と続く。紅色にいたっては読んでいて頭が痛くなる。総じて辞典ってのは分らない。ある人が「さよなら」の意味を求めて辞典を何冊か当ったけれど、結局堂々巡りだったとか。諦めてしまえば早いものを「さよなら」の意味を知るまで20年かかったと言う。
 「今日は」は「今日は、お元気ですか?」
 「はい、お蔭様で元気です」
 「さようならば、よろしかったですね。御機嫌よう」
の簡略化された姿らしい。そうなら「こんばんわ」ではな
く「今晩は」になる、ハズ。
 Good by は God by
 「再会」はそのままだろうけれど、大陸の生と死、出会いと別れ、その間に吹き荒れる暴風のような歴史を考えると人間の運命への恐れが表れているようで結構意味深。
 
 

さらなる未来へ

2008年03月23日 風の戯言


 穏やかな早春の日が過ぎてゆく。
 昨日は庭の落ち葉を片付けた。枯葉の下から芝桜が顔を出して出番を待っている。

 災害復興計画策定委員会が終わり、最終答申を提出できることになった。後は議会の質疑を経て承認を待つだけ。何が出来たわけではないが、やはり少しホッとしている。
 キャッチフレーズは「さらなる未来へ」で決めさせて貰った。何度かの苦難を乗り越えた先人達への敬意と、未来に対し自分達の世代の責任を盛り込んだ心算だ。
 しかし、最近は言葉だけが先行し、現実の解決策が検討されないことが多いように思う。柏崎では「二つの大学」、地域と個人の未来を創っていく為に教育の大切さは論を待たない。同じく医療も安心して住む為に欠かざるものなのだろう。
 「少子高齢化」が叫ばれて久しい。しかし何の回答が準備できていたのか。出産保育の支援は大切だが、この流れを止める為には非力である、と思う。移民の受け入れしかないのではないか。これは国の問題だけではなさそうだ。

 などなどと余計なことをいいながら会議は滞りなく済んだ。本当は柏崎のグランドデザインを再考しなおす組織が必要ではないかと思っている。

自死という生き方

2008年03月20日 風の戯言


 屋根下の雪だけを残して冬が静かに去ろうとしている。
 今日はお彼岸、春分の日。
 30年前は「風船一揆」を小千谷の早春の風物詩にしたくて夢中で走り回っていた。お彼岸が来れば雪も降り止み、春が近づく、そんな雪国の喜びを白い雪原と青空に向かって大声で叫びたかった・・・遠い遥かな思い出・・・。
 仏教思想と自然現象が何処で結びついたかは知らないけれど、日本だけの習慣だと言う。あの世とこの世を行ったり来たり、ランドール博士の5次元の世界、世俗的解釈が出来るようだ。

 週刊誌の書評に誘われて須原一秀「自死という生き方」を読み始めている。借金苦や失恋、挫折、病苦や鬱病でなく、存分に生きた、何も思い残すことは無い、と言う哲学的死に方もあっていいと、自分でも書きたかったテーマだ。人間は宗教や社会的習慣ではなく、勝利としての自分の死の自由があってもいい、と思っていた。
 人生を十分に生き抜く為に、この手の本は必要なのかもしれない。

 今日は久し振りにパティ・ページの「テネシーワルツ」を繰り返し繰り返し、飽きずに聞きほれていた。65歳になって失恋したわけでも無かろうに、心を掻き毟られ、悶え、今日一日がこの曲を聴く為にあったのかと思うほど感動に浸っている。
 1950年代、アメリカは憧れの的で、日本は貧乏に苦しんでいた。鯖石はまだ縄文時代のような生活で、俺には何も無く、死にたくなるほど退屈な日々の連続。爆弾やロケットを作ったり、電気ショックで魚を気絶させたり、蔵の中を荒らしまわったり・・・退屈しない為にはかなり大変だった。

雪割草

2008年03月16日 風の戯言


 春のようなお天気に誘われて、西山大崎の雪割草の里を散策してきた。加納の家にはまだ雪が残り、同じ柏崎でも海辺は一足先に春の訪れを楽しんでいる。
 庭の柿の木の下に蕗の薹が落ち葉を押しのけて顔を出していた。春の香りは酒のつまみに最適なのだが、連日のアルコール濃度の高まりすぎて断念! ここを乗り越えてゆくのが在来種の飲兵衛の筈なのだが・・・酢味噌あいが美味しかった。

 14日土曜日の堺屋太一さんの講演は逸品だった。さりげなく自分の実績を語り聴衆の信頼を引き寄せ、鉄道草創期の反対運動に触れ、時代の先端を行くものの理解を進める。原発の町興しを壮大なヒント、2キロのプールを作ることにより年間100万人の観光客を呼ぶ・・・子供のような夢と、鬼のような実行力と、仏のようなホスピタリティ、それが地域を作ってゆくのだと・・・考えさせられた。

 震災復興計画策定委員会が明日4回目の会合で終了する。計画の理念を表現するのにキャッチフレーズを「さらなる未来へ」とさせて貰った。柏崎は北国街道に咲いた美しい海辺の町であったはず。越後縮みの行商を経て石油産業、原子力産業が花咲き、幾たびかの困難を乗り越えて今また未来を目指す、そんな決意を表したいと思う。
 本当はこの町の未来を語るグランドデザインが必要なのだろう。基本理念、基本方針なしに時代時代に翻弄されていては地域の利益は見えなくなる。何を求めているのか自分でも分らなくなる。貴重な時間は空費されるに任されて、市民の幸せが漂流してしまう。急がねばならない。