中越地震 4周年
昨日は中越地震4周年、6時少し前「丁度、この時間だったよね」などと当時を思い出しながら「じょんのび村」で話し込んでいた。「じよんのび村」は来年春までの工事に入り、閑散としていた。ここもあの地震で手酷くやらてしまったのだが・・・。試練は続く。
前日の22日夜は「NPO 全国防災支援ネットワーク」の代表理事の羽鳥さんと初対面ながら午前様に近くなるまで飲んでいた。芭蕉が「奥の細道」行脚で柏崎を訪れた時、連絡の手違いで宿を断られた、と伝えられる「天屋旅館」、本当は本家の「天屋旅館」だったらしいのだが、子供の頃に海に連れてきて貰って遊んだ、と言う懐かしい思い出を手繰り寄せながら、中越沖地震でメチャクチャになった建物をボランティアで修復したという、女将の語る嬉しい話の主から尽きない物語を聞き続けた。余談だが「天屋旅館」は「江差追分」の市川与一郎の縁に繋がる。
そして、今日は株価が8000円を割った。
世界の主要国首脳が額を寄せて練った対策をあざ笑うが如く6000兆円とも7000兆円とも言われる世界のホームレスマネーが、暴れまわる癌細胞のように自らの生存環境である世界経済を叩き壊している。
後の世界史で、この時代は何と語られるのだろう。
蜘蛛の糸
畑の柿が色づき胡瓜は枯れ、ゴウヤの実も小さくなり、ミニトマトはひび割れ始めた。マリーゴールドはこんな季節にも花をいっぱい付け、バラも秋の陽を受けて支えきれないほどの真紅の花を咲かせている。
前の公園の公孫樹の葉も黄色に染まり、静に秋が歩いてくる。ふと、蜘蛛の巣に目が行った。写真を見ながら、久し振りに芥川の「蜘蛛の糸」を思い出した。一番好きなのは「芋粥」。東京での夢破れ、途方もない挫折感の中で、俺をふるさとに引き戻したのは兄貴の一言と「芋粥」だった。柏崎に俺の生きる場所を示して貰った一瞬だったと思う。
相変わらず休日は経営品質申請書の取り纏めに費やしている。遊び不足のストレスが脳の動きを鈍らせ、思うように言葉が出てこない。これじゃホントの痴呆症になってしまう。
提出までもう3週間。卒業論文? いや新たな出発点とすべく納得行くまでプランを練り、社内で幾つかの会議を重ね、みんなの思いを積み重ねて行きたい。新たな戦略ではなく、今までやってきたことの意味を振り返り、再認識するだけで創風はトンでもなく強くなるはずだ。
全く無関係で脈絡もない話だが、最近の北朝鮮の金正日親分の写真を見ていて隆慶一郎の『影武者徳川家康』を思い出した。関が原で家康は死に、本多忠勝が影武者の二郎三郎を身代わりにすることを秀忠、本多正信、井伊直政、榊原康政に伝え、徳川幕府を永らえさせた。歴史小説とは言え歴史の隙間を摘み合わせてな並び替えれば、全く新しい東海一ま弓取り像が復活する。信じたくなるほどの歴史の虚構の舞台解釈に酔ってしまった。
本物のことはと思えないほど紀州家、尾張家、水戸家等の跡継ぎ達はみな不思議と若かった。或いはホントの話だ、かも?
こんな話で一杯飲みたいネェ・・・。
もう、秋・・・か!
10月1日-3日をかけてISO27000とISO9000のと更新と継続審査が無事に終わった。みんなの頑張りに感謝したい。
今度は俺の番、新潟県経営品質賞の申請書をスタッフと纏めている。過去を振り返り、理想的な姿を構想し、現在との落差を課題として改革項目を整理している。思考を集中させる時間は休日しかなく、気力と体力と知力?が尽きかけた身としてはきつい。ただ、これをやらなければ俺は何時までも自由の身にならない・・・もう少し・・・もう少し・・・。
そんな今日は素晴らしい秋晴れ。
ぶどう村に続く与板林道を女房に引き摺られながら小一時間歩いた。明日も晴れていたらクタクタになるまで歩いてみたい。前身が土方のせいかアタマ使うより身体使っていた方が気分が楽チン。深く考えないで直情的な行動が目立つ為トラブルも覆いのだが・・・軽佻浮薄は身についた苔みたいなもので今更どうしようもない。B型人間の標準サンプル?
秋の刈入も殆ど終わり・・・何かの都合で何時までも刈り取りが出来ない田圃もあるのだが・・・今年も庭の金木犀が香気を放ち始めた。子供の頃は農家の脱穀機の音と重なっていた。
最近はなかなか本も読めない。長谷川幸洋の「完了との死闘700日」は面白かったが高橋洋一の「さらば財務省!」は進まない。「過去官僚」なんてどうでも良くなってきているようだ。
世界中に拡大している金融危機はどうなるんだろう。考えてどうにかなるもんでもないが、どんな未来が待っているんだろう。勝手にしゃがれ! だが嫌な予感がする。