黄砂舞う日々
黄砂の降る音が聞こえるほど山も霞んでいる。
中国大陸、モンゴルの砂漠から飛んでくる。ロマンだなぁ。
犬の散歩しながら黄砂の見物する。思いを中国に馳せている内に半藤一利の昭和史や文春4月号の小倉庫次侍従日記や鹿島昇の怪しげな解説本を思い出してしまった。失敗の本質、山本七平の「空気」なんてのを頭の中をごちゃ混ぜにしてガラガラポンすれば昭和史と言う上から下まで無責任な当時の日本の姿、いや立派な遺伝子のために現在もこの渡世を見えなくしている無責任な迎合社会が見えてくる。
右翼はテロをしなくなったし、左翼は火炎瓶を置き忘れてきている。「わるうござんした!」と腹を切るやつもいなくなって、世の中みんな植木等になってしまった。
夢や希望、ナンテ言葉はもう死語になり、言葉に命を賭ける情熱が失われた。
恥知らずがボリューム一杯に上げて、自分でも信じていないことを山に説教している。
言葉が行動から遊離し、誰も信じていないことをテレビも役人も虚ろな目で単調な言葉で吐き出している。
何かおかしいぞ?
大きな地震が来る前に、日本人は狂うのだそうだ。石黒耀の本にそんなことが書いてあった。日本の社会変動は地震のパワーで起して、てぇへんだーって人間が後からついてくる。ええじゃないか、ええじゃないかと騒ぎ出す?
下天は夢ぞ、ただ狂へ! 誰が言っていたかな・・・
写真は4月1日午後
八石山が黄砂で霞んでいる。これもまたいい風景。
戦い済んで日が暮れて
夕方から新潟の会議を二つ終わらせて、古町に寄って最終に「きたぐに」で家に帰る。新潟発22時55分、新潟はまだ宵の口でも車内はもう夜中。疲れ切った乗客の一人となってシートに身を沈めると深いため息が出てきてしまう。
長岡から東京発最終便の仲間達が乗り込んでくる。闘い疲れて、でも生き延びて家に近づいた安堵感が表情を緩めている。
人は何故闘うのだろう?
戦いは人を疲れさせる。
闘わなければ、人は楽なのだろう。
戦いを放棄すれば、敵が攻めてきて殺されるか奴隷になるか、只一度の人生を自由に生きる選択権は簒奪される。
心の平安は、戦いに勝ち残った、その僅かな時間だけしかない。
もう眠い。何を書いているか判らない。寝る!
能登沖地震
日曜日の朝を、何時もの様にグダグダとベッドの中で本を「見ていた」らいきなりズシン!と来た! 横揺れが長かったので咄嗟に「震源は東京!?」かと思った。
能登、石川、富山には多くのお客さんが居る。担当が客先の安否の確認を取り続けている。経営品質で顧客本位を説き、自分達で解っているつもりでも直ちにこんな行動を取ってもらえるのは社長としてありがたい。
近くなら客先を回る、遠くなら電話で様子を聞く、サービス業としては当然のことなのだろうが、ビジネスとしてだけでなく被災地の知人の安否を気遣うことは人間としての温かさのように思う。
現代は、人としての温かさが何よりも大切なんだろう。
写真は3月23日、柏崎の岬館からの夕陽
この夕陽の先に能登がある。
科学とは何か
地球が誕生して46億年、生命が生まれて38億年、人類の祖先が400万年、農耕を始めて1万年、人間が自分の未来を自由に語れるようになってまだ半世紀しか経っていない。
人間は動物の、いや生物の一種でしかなく、生命には始めと終わりがあり、いわば死亡率100%の生命体でしかない。時間的には100年なんて化学変化にも似た一瞬なんだろうな。ただ、どう変化するか判らない・・・諸行無常。
体感的には物理変化に見えるが、そろそろと近づいてくる未来は恐怖以外の何ものでもない。人は未知なるものに怯える。
東京外国語大学名誉教授岡田英弘の「この厄介な国、中国」を読んでいたら(この本は以前「妻も敵なり」という書名で出ていた)「儒教は科学だ」との記述があった。はて?、と思い続きを読むと「科学の究極の目的は未来予測」とあった。全ては未知なる明日を知る為の手段、だと。
初期仏教の流れを汲むといわれるテーラワーダ仏教のスマナサーラ師は「仏教は科学」と言っていた。現状を見つめ、未来を予測、それは死亡率100%の人間が与えられた人生を幸福に生きる為の教えなのかも知れない。未来は怖いけど、思い悩んで立ち止まってしまっては生きている価値が薄れてしまう。まっこと、この世に生を受けて、己の生き方に悶々としているなんてやはり人間は不思議な生き物ではある、な。
諸行無常の一瞬の生。背筋を伸ばし、風雪に耐え、一筋の愛に生きる。キザだが、そういう事なのかも知れない。
堀江裁判
堀江裁判の判決を聞いて裁判長の馬鹿さ加減に呆れた。堀江はユーザーの価値を創っていないし、粉飾決算と株価操作で株主と言うお金で夢を買っている人達の夢と信頼を裏切り膨大な損失を発生させている。堀江は所詮虚業家であり詐欺師でしかない。その本質を知らず時代の寵児と祭り上げたマスコミや政治家、そしてそれに乗った大衆の無知を笑うべきだろう。大馬鹿野郎! と叫びたいね。
この判決の甘さと日興コーデアル証券に対する日証の処置の不甲斐無さは日本の資本市場の信頼を無くし、嘲笑が静かに広がるはずだ。ハンターに気付かないカモは、ゲームにならないアホウドリでしかない。畑で大根を抜くように、獲りたい時に取れる。
ぶどう村の件も地元の反応がおかしい。
基本的には第三セクターとは言え株式会社であり法のルールに従わなければならない。第一は累積赤字が資本金を超えデフォルトが発生している。第二に金融機関からの借財が年商の2倍近くになり返済不能に陥っている。第三に在庫の品質、量、また不実記載があり通常の企業であれば数千万円に上る粉飾決算がある。
不思議なのは会社側が市役所の責任を追及し、市役所は官設民営の論理で会社側の責任を求めている。法的に会社経営陣の責任追及、特に粉飾決算と経営破綻(経営は結果論でしかない)について市税を投入した株主として損害を与えられた立場からの損害賠償責任の追及がなされていない。市民の立場として行動を起さない行政に対し訴訟を起しても不思議は無いのかも知れない。
法律に則った立場での話し合いがあり、小さなコミュニティとしての玉虫色の解決方法があるはずだろうと思う。
このままチキンレースが始まれば、第三セクターの社長のなり手がなくなり、今後新会社法による監査役の責任が重くなれば監査役の引き受けてもなくなる。
地域は様々な要因から寂れてしまう。