言語と境界
「誰かが私に言ったのだ
世界は言葉で出来ていると」 山尾悠子
柴野毅実「言語と境界」こんな巻頭言で始まる。
柴野さんが「遺書」のつもりで書いた「自然科学的理解を超えて」との副題を付けたこの本は素晴らしい、と思う。
全部を読み通していないし、読んだとしても俺の理解を超えているのだろうし、人間が最も人間なのは「言葉」があるからだと考えているからだ。
「サピエンス全史」(これもまだ読み通していない)では、動物の中で、人類の中でホモ・サピエンスだけが唯一生き延びたその要因は「無駄話」が出来たからだ、言っていた。井戸端会議、際限もないお喋りがコミュニケーションのもと、言ってみれば外敵から身を守る情報交換が可能だったからだ、と俺は理解してしまった。
今も、意味不明な女達の会話には降参なのだが・・・。
「言葉」に戻る。
最近、続けていくつかの葬式に参列している。
以前から感じていることだが、仏式の葬式は「あれはなんじゃらほい!」だ。「お経」なるものは「音」であって「言葉」ではない。従って意味が理解できない。それが「有り難い」のかも知れないが、「坊主業界」はこのままでは絶滅する。
仏教は、絶ち難き悩みの中で、それでも生きなくてはならない仏の教えであり、救いで有ったはずだ、と思っていた。
しかし、「言葉」を捨てた仏教に、宗教としての存在価値は消滅する。
般若心経や修證義を、枕元に置くバイブルのように平易な文章にし、迷ったときに常に足下を照らす明かりにして欲しい。
日曜日はうんじゃらげ!
古賀茂明の「日本中枢の狂謀」を読んでいる。
今まで、この指摘のことを何故深く考えなかったのだろう。我ながら情けない気持ちになっている。
「国境なき記者団」に依れば日本の「報道の自由度」は世界72位だという。安倍総理の無茶苦茶振りには驚いていたが、「読売新聞」発言でマスコミが猛烈に突っ込む、と思っていたけど糞詰まりの状態。
マスコミを信じて、また戦前のようにならなければいいが・・・。
東京都議選の敗北で、やっと何かが動き出したようだ。
金曜日、リハビリ休暇を貰うようになって体調が少しづつ回復している。長生きする気はさらさら無いが、成仏寸前まで憎まれ者でいたい。有り難いことだ。
庭に雀たちが遊びに来てくれるようになって、餌をまいている。日増しに数が増えている。どんな連絡を取っているのか?
集中豪雨 その後
2日の日曜日、実家の墓参りに行ったら、バケツで水をぶっかけられたような、一瞬の大雨にやられた。
何かあるな? と予感がしていたが、翌日からNHKで全国放送されたような大雨になり、遠くの親族から心配の電話を貰った。
まぁ、大したことなかった。
随分と前だが、鯖石川流域が大洪水で、高柳の石塚酒造の大きな酒樽が実家の下の道路上まで流されたことがあった。
後年、その石塚酒造の下の鯖石川に関を作る工事中、濁流が土嚢の締め切りを超え始めた時、川中に残された大きな水中ポンプを引き揚げるために、川を泳ぎポンプにツナを付けたその瞬間に締め切りが崩れ、濁流に流されかけたこともあった。
みんな遠い昔話。
心配されたその後の雨も少なく、台風も太平洋に逸れて、隣のコミュニティと小学校に設置された「避難所」も解除され、鯖石はまた平和な場所に戻った。
鯖石は、この退屈すぎる時間が流れている、この「時」がいい。
集中豪雨
悪代官は安倍総理、というより「嘘と開き直り」がバレバレになりながら、一人の自民党議員も反乱を起こすことなく、唯々諾々と親分の言いなりになった「お粗末さ」が主題なんだろう。
馬鹿馬鹿しい!
朝4時過ぎに猛烈な雨音に目が覚めた。
集中豪雨。
会社の裏の川を覗きに行ったら、カモが「ねえ、助けてくれよ!」
と鳴き続けていた。周囲を見たけど、何も見えない。
夕方帰りに見たら、やはりまだそこにいた。
親にはぐれた子ガモなのか、子供にはぐれた親ガモなのか、いやに何か残るカモだった。
「人生なんて、死ぬまでの暇つぶし」なんだろうけれど、かもに気持ちをかき回されるなんて、何時までも大人になれないなぁ。
人生色々だ。そして色々大変だ。