風船共和国 正史 原稿メモから

2015.03.03 風の戯言

越後風船共和国 正史
おぢや「風船一揆」の物語

 白い雪原に色鮮やかな熱気球が舞う「風船一揆」、今年は31回目を迎える。もうすっかり雪国小千谷の早春の風物詩として定着し、多くの人たちに親しまれている。この祭りの仕掛け人として、大らかな時代の、些かの自慢話も含めた物語をお許し頂きたい。

 神に導かれるままに我々が「小粟田原」に降り立ったのは、日本暦で言えば昭和51年10月3日のことであった。日本国の歴史は高天原に始まり、越後風船共和国の歴史もまた小粟田原より始まる。混沌とした創世記は数々の伝説に包まれ、ロマンと冒険とが新しい時代を切り開いてゆく。欺瞞に満ちてはいるが・・・。
 その日われら柏崎熱気球苦楽部「かぐや姫とその一味」は朝から戦慄の中にあった。早朝、加納から飛び立たせた熱気球「かぐや姫」は離陸後暫らくして2人を乗せたまま北条の山の中に消えた。追跡車で探し回りながら、気球に乗れなかった我々は狂喜していた。「やつらは死んだ、次は俺だ!」正直に言って日本では7番目の、出来たばかりの我々の熱気球「かぐや姫」の方が心配だった。だって実際の熱気球に乗った人なんて日本でもまだ何人も居なかった訳だから・・。冗談が次第に小声になり、必死の捜索が続いた。北条、山潤、広田、小島、長鳥・・・成沢まで行ったり来たり、道行く人片っ端から捕まえては「気球見なかったかね」と聞いた。「気球・・? へっ?」 誰も見たものはいないらしい。数時間後山道に打ち捨てられた彼ら見つけとにかく一安心。聞けば道もない山の中に不時着し、藪を掻き分けやっと道に辿り着いたという。丁度農家の人が通りかかったので「此処は何処だね?」と聞いた。爺さんは不思議そうに「おまえ、何処から来た?」「うん、山の方から!」「山の上なんて道なんかないだろうが?」「うん、俺、空から来たんだ!」「・・・そうか、そうか、ふぅーん」爺ちゃんはそのまま行ってしまった。「空から降りて来たぁ?・・・バカが!・・」角を曲がって直ぐに、ジサマの吐き捨てるような独り言が聞こえた、と。
 道なき道を燃料のガスボンベを担ぎ上げ、気球を広げればそれだけで埋まってしまうような小さな谷から「かぐや姫」はこの日2度目のフライトに入った。山を越え、谷を超え、そしてまた山を越え、秋晴れの青空をわれらの熱気球は誇り高く、威厳すら漂わせて飛行を続けていた。「行けぇー!」我々も叫び続け、この日2度目のトランス状態に入っいた。
 午後0時20分、本当に神に導かれるままに俺達がまだ地名も知らなかった「小粟田原」に「かぐや姫」は舞い降りた。多くの見物人に囲まれ、照れくさい輝かしい秋の日だった。翌年、この地で第1回「風船一揆」を開くことになるなどその時は思いもしなかった。
 
 俺が、ぼんやりと気球に乗りたいなんて思い始めたのは「素晴らしき風船旅行」や「赤い風船」の映画を見てからだろうと思う。東京と横浜の夢に挫折し、故郷に戻り、新しい夢を捜し求めていた。ある日、若葉町の近藤塗装店で仕事の打ち合わせも終わり、若親分の近藤正雄氏と「運命の対談」に入った。「おい、熱気球作って空飛んでみないか」全く唐突な俺の誘いに「面白しげだねか、やろうて」とこれまた唐突な答えが返ってきた。「ところで、熱気球って何だね」俺は一瞬にしてこの男が好きになった。少年マガジンのヨーロッパの熱気球大会の写真が唯一の資料だった。京都大学の学生に出来て、俺ら土方や職人に出来ないことないだろうとばかり「日本で2番目」の気球を目指し、5人の仲間と2年間大久保神社で夜な夜な酒を飲んでいるうちに熱気球は出来た。世の中、何とかなるもんだ!。
 
昭和52年3月、俺達は小千谷市小粟田原で「嫁よこせ!」のムシロ旗を立てて、第1回の「風船一揆」を開催した。参加気球7機、東京、京都、広島から、そしてアメリカの気球野郎も加わり、雪原にカラフルな熱気球が舞い、炸裂するような早春の祭りが始まった。宿は中鯖石コミュニティ、除雪も会場作りも交通整理も食事作りも、みんな風船共和国の仲間の手作りだった。
 56年から当時の星野行男小千谷市長、片貝花火-四尺玉の本田善治観光協会長の本格的な支援が始まり商工会議所も巻き込んで小千谷市の冬の一大イベントとして新たなスタートを切った。昼間の雪原フライト、夕方のバルーングロー、そして夜は全国から集まった気球の仲間、地元のスタッフ、観光客、一般市民を合わせ数百人の大パーティが夜の更けるまで続く。あれから30年近く、今も首謀者は朝日木材の金子修一氏が続けている。昨年、世界航空スポーツ協会から小千谷市と越後風船共和国は30年の表彰を受けた。世の中、何とかなって行くもんだ!

悪さ古稀の時代  原稿メモから

2015.03.03 風の戯言

悪さ「古稀」の時代 新
石塚修

 いつの間にか古稀が近づいていた。
 俺が「古稀」ねぇ・・まだ「あんちゃ」だと思っていたのに、残り50年もないのかぁ。
 両親ともに短命で、その親の祈りか、自分達兄弟姉妹は7人とも健在で長姉は90歳になる。時折電話すると日本古代史の話に花が咲いたりする。だから、ヒョットすると後50年も満更・・・。
 2020年2月21日、「70歳死亡法案」が可決された。日本国籍を有するものは70歳の誕生日から30日以内に死ななければならない。と、そんなギクリとする小説が発売されている。現代版「姥捨山物語」で、些かむかつきながら読み進めている。そんなバカなと思いつつ、ただ現代の財政のままではやがてみんなが「地獄」に落ちざるを得ない。今の統計を見れば、そんな未来も案外間違ってはいないのだろうが、なんか、嫌な本だ。
 これから、静かに議論を呼ぶのだろうが、まだもう少し時間がある。元気な今の中に、好きな酒を楽しむことが最優先される。「酒乱生人生論」を掲げた者としての責任だ。
古来、人間は酒に溺れてきた。
酒乱学史的に言えば、酒を飲むことに歓喜を叫んだ動物が人類に進化したのだと思う。、我らはその末裔のだが、考えてみれば、酒を飲むと言う行為は人間特有の文化ではないかと思う。一杯の酒の為に、人を愛し、人を騙し、泣き叫び、笑い転げてきた。酒乱とか錯乱と言われる中で、飲酒後のその精神的不安定性から自己欺瞞するために哲学が求められた。ただ、一度だけの生、「人生如何に生くべきか ? 」と真剣に考えたら酒に行き着くしかない。
只一度だけの生、後ろ向きの、暗い酒では何の解決にもならない。青春の彷徨の記憶がまだ黒い影となって残っている。東京での崩れた学生生活から柏崎に帰り、建設現場で頭ではなく身体全体で生きることを教わった。汗にまみれ、酒にまみれ文字通り裸の付き合いは、多くの仲間を創り、「柏崎熱気球苦楽部」が動き出し、冬には職人達による老人宅の雪堀支援「雪援隊」が活躍し、そして[パソコン村]が生まれた。

坂本龍馬の海援隊、中岡慎太郎の陸援隊、そして石塚の雪援隊は多くの人達に喜ばれた。市から雪に潰されそうになった老人宅の雪堀補助金が出て、中鯖石・南鯖石の冬場仕事の出来ない職人さん達を、雪堀に動かした。当時冬至手に入れたばかりの熱気球は日本2番目の手製熱気球を目指しながら、大久保神社に集まって酒を飲み、夢を語っている中に6番目になってしまった。熱気球の仲間は全国から集まり、京大や同志社等の関西勢、筑波大や慶応等の関東勢が我が家の庭の15坪のプレハブ小屋「柏崎気球会館」に50人もが集まり、昼間は越後の空を飛び、夜は寺泊のカニと日本酒で盛り上がり、学生達の熱気で「酒乱性人生論」の臨時講義が始まる。「人生如何に生くべきか」は「旨い酒を飲むためにどう生きるか」と翻訳できるのだ、と超理論の講義はいつも行き成り絶好調を迎える。「美味い酒が買える「仕事」を大切にしろ、自分の「話の泉」を持て、そして飲み明かしても語り尽くせぬ「心友」をもて・・・」と。
健全な酒は、日本の若者を、素晴らしい未来に旅立たせる。
「風船一揆」もみんなで酒を飲み、みんなで夢を語り、やがて夢は次第に形になり、大空を駆け巡るようになった。日本2番目を目指した熱気球は、大久保神社で生まれ、大洲で初係留に成功し、中鯖石から飛び立った気球は北条の山で行方不明になり、墜落した場所から再び立ち上がった気球は風の中を舞い、小千谷市小粟田原に降りた。
当時の星野行男市長、4尺玉花火の本田善治さんや多くの人達と夢を語り、春を呼ぶ風物詩「小千谷雪原祭り」が始まり、今年は第36回「風船一揆」が開催されることになった。  
36年間、小千谷市役所、商工会議所、観光協会、各町内会、ロータリクラブやライオンズクラブ、みんなが一緒に冬の祭りを創り、楽しんでいる。
45歳で建設業から情報通信サービス業に転身し、25年目を迎える。そして今年は「古稀」。真面目に生きてきたつもりだが、人は「ワルサ古稀」だという。

海の柏崎、海水発電は夢か ? 原稿メモから

2015.03.03 風の戯言

海の柏崎、海水発電は夢か ?
石塚 修
3.11東日本大震災から3年が過ぎた。
震災3ヶ月後の現地は凄まじく、地震と津波に壊滅させられたあの光景を忘れることは出来そうにもない。様々な人生と歴史を育んだだろう街も集落も消滅していた。田畑に草が生え、残った人家にも人影はなかった。
特に、福島原子力発電所から20km地点に設けられた南相馬の検問所には大きなショックを受けた。柏崎刈羽原子力発電所の軒下に棲む者として、単純な話ではない。
「チェリノブイリ ⇒ スリーマイル ⇒ カシワザキ」との暴言を吐き、大顰蹙を買っていた時もあったが、「フクシマ」で現実のものになってしまった。柏崎刈羽原発も中越、中越沖地震と続く震災で大きな被害受けたけれど、「大事」には至らず、「安全神話」は生き続けていた。「経済的恩恵」の中で、考える事を「麻痺」させていたのかも知れない。「フクシマ」の後、「想定外」という言葉から現実に引き戻された。100%の安全はあり得ないことなのだ。そう言えば、あの地震の後の「補修」は大丈夫なのだろうか。
火力発電所の原油輸入による負荷は日本経済を大きく変えている。安倍政権の下で「原発再稼働」が現実味をおびてきている。本音を言えば、「フクシマ」の現場を見た身には柏崎刈羽原発は再稼働して欲しくはない。しかし、「廃炉」は正しいのか?
原発に賛同し、建設に参加した者として荒浜のあの広大な原発敷地が廃墟になるは見たくない。「廃炉」と「再稼働」の間に何かないのか。原発を「再稼働」させてもやがて耐用年数が過ぎ「廃炉」の季節が来る。ならば「再稼働」の先に「新しい発電所」を再構築出来ないか。
もし可能ならば、地元の経済人の1人として、次の安全な発電が出来るまである期間は耐えよう。ただ、いつ来るか判らない災害におびえ続けることになるのだが・・・。
柏崎刈羽原子力発電所の灯りを見ながら時折考えることがある。
この土地で生きていくために、豊かな経済が必要だ。柏崎の既存の産業を成長させ、更にこの土地でしか出来ない自主自立の産業を育て、雇用を生みだし、老若男女の笑い声が響き合う「柏崎・刈羽」をもう一度再現できないのだろうか。みんなが目を輝かせて夢を語り合う「柏崎・刈羽」をもう一度取り返せないのだろうか、と。
柏崎刈羽原子力発電所の灯りを見ながら時折考える。
核燃料の代わりに、目の前に拡がる「海のエネルギー」を使えないものかと。海水から水素を取り出し、燃焼させれば、また水に戻る。「万能細胞」の例もある。不可能を可能に出来る時代が目の前に来ている。そして、海は世界に拡がっている。
柏崎は石油、原子力と続くエネルギーの町である。「海」を次世代の新しいエネルギー源として活用する世界的な研究・実験・実現都市・柏崎の再生が出来ないのか。
人は夢があれば生きて行ける。それと・・・お金と・・・。

風船一揆36年 原稿メモから

2015.03.03 風の戯言

「風船一揆」36年
石塚修
大雪の中、小千谷の「風船一揆」が近づいてきた。
雪国の春を呼ぶ風物詩として多くの人達に愛され、今年は36回目を迎える。
2月25,6日、今年もまた全国から40機の熱気球が集まり、白い大地と青い空に色鮮やかな花が咲き、会場から大きな歓声と響めきが上がるのだろう。山本山の麓、西中の会場から飛び立った熱気球は、小千谷の街の上空を越え、悠々と長岡や越後平野まで雪の大空を飛び続ける筈だ。
夜は市内の平沢会場に10機近い熱気球が大きな提灯のように浮かび上がり、会場に設営された多くの屋台には見物客たちの賑やかな話し声が広がり、昼間から陣とったカメラマン達の熱いシャッター音が聞こえてくる。
小千谷との縁が生まれたのは、神に導かれたような、初期のフライトから始まる。京都大学の「イカロス5号」に続き、日本2番目の気球を目指した「かぐや姫」号が飛行実験を繰り返していた頃、中鯖石のグランドから飛び立った熱気球は北条の山に消えた。探し求めて、やっと操縦者達と出会えたのは東長鳥の山の奥だった。聞けば、燃料が尽きて崖の上にせり出した木の枝に止まり、最後の一炊きで谷の底の藪の中に降りられたという。一つ間違えば日本で最初の死亡事故になっていたとしても不思議はなかった。追跡隊が合流し、プロパンボンベを交代で担ぎ上げ、そこから飛び立てたのは運が良かった、というより神が見守っていてくれたように思える。語るうちに、遠い記憶が蘇ってくる。
再び大空に浮かび上がった「かぐや姫」は、誇らしく、風に舞い、車で後を追いかける我々は全身を突き抜けるような感動の中で、意味の分からない絶叫を繰り返していた。
熱気球は小千谷市小粟田原の稲刈りが済んだばかりの田圃に降りていた。大勢の人達に囲まれ、照れくさそうにしていた仲間達の顔が今も忘れられない。
翌年の3月、雪の上を飛びたいという全国の仲間達と「風船一揆」が始まった。
当時の星野行男市長、4尺玉花火の本田善治さん、市役所の丸山係長、商工会議所や飲食店組合の方達、ライオンズクラブや町内会の方達、多くの人達と夢を語り、「風船一揆」は春を待つ祭りとして大きく育っている。実行委員会を取り仕切るのは朝日木材の金子修一氏で、彼と新潟県内の「越後風船共和国」メンバーがこの大きな大会を支え続けている。
 夜のイベントの後、サンプラザで気球関係者、市長や市内の人達、ツアー客が混じり合い、300人ほどのパーティが夜遅くまで続く。会場では「春よ来い!」の大合唱が沸き上がり、パーテーの帰の人通りの少なくなった町中のあちこちからも春を待つ歌は聞こえてき、雪国の夜は更けていく。
 大雪の中でも、春はもうそこまで来ている。

70歳死亡法案可決! 原稿メモから

2015.03.03 風の戯言

「70歳死亡法案 可決 ! 」
石塚修

 2020年2月21日、衆議院特別委員会は「70歳死亡法案」を賛成多数で可決した。これにより日本国籍を有するものは誰しも70歳の誕生日から30日以内に死ななければならなくなった。政府は安楽死の方法を数種類用意する方針で、対象者がその中から自由に選ばれるように配慮するという・・・・と、そんなギクリとする小説が発売されている。著者は垣谷美雨。2012年2月。幻冬舎。  
財政破綻寸前の日本政府は、高齢化により70歳以上が30%を超え、国家財政の行き詰まりを解消するために「死亡法案」を強行採決した。法案は2年後から施行され、初年度の死亡予定者数は既に70歳を超えている者も含めるために約2200万人に達し、次年度以降も毎年150万人前後で推移するという。
いつかこんな議論が始まるだろうと予測していたが、やはり出たか、という感じの本だ。本の帯に、「日本のために死んで下さい」、「2年後、やっとお義母さんが死んでくれる」とある。本音が出過ぎていて、怖い。
古来、不老長寿は最高の願いであった。しかし現代、「長寿」は本当に幸福なのか? 人間が必死になって求めてきたものに、今は疑念を超え、絶望すら感じ始めている。
3.11東日本大震災が与えたものは「人は努力すれば幸せを掴むことが出来る」という神話の崩壊だろう。大災害や戦争で日常を奪われ、絶望の淵に追い詰められたことは何度かあったが、人は未来を信じ不死鳥のようにまた立ち上がり、以前よりも大きな幸福を掴んできた。だが3.11以降、その価値観が根底から揺らいでいる。

日本の高齢者は3000万人を超えたと言われ、世界の人口も70億を超え、2050年には90億人が予測され、人間から食料と夢を奪おうとしている。
人間は「老衰による自然死」こそ人間の理想と考えてきたけれど、現実は多くの人はベッドで横たわる「植物人間」で最後を迎えることが多くなった。長寿が「幸せ」だと信じるから医者は自らの使命に心血を注ぎ、親族は介護に多くのエネルギーを割いてきたのだけれど、しかし、今それは「みんなにとって幸せ」なのか。
人生とは何か? 
新たな問い掛けが始まっている。生きる意味は何処にあるのか。人は皆その問いに自分の答えを見つけ出さなければならない。「人生は無」だろうけれど、絶望の先に微かな未来があった。人間の最終死亡率は100%、何時か必ず死ぬのだから「生きている、今」を大切にしなさい。結局それしかないのだろうけれど、今は虚しさすら漂わせはじめている。
願っていた「長寿」が実現し、心の密度は薄くなってしまった。「姥捨て山」ではない、与えられた生命を全うできる「何か」が必要なのだ。
俺も、もう70歳を過ぎてしまった。