朋あり近間より来たる・・・
三国志演義における呂蒙の言葉だそうだ。
久し振りに近くの友にあった。
中々普段会えず、久振りに昼食を一緒した。
会えばいつもバカな話で盛り上がるのだが、今回は国会でいろいろあり、彼は高石法務大臣の放送統制の言葉に怒り狂っていた。
何処まで真面目な議論なのか、後追いで新聞テレビを見ているが、阿部ちゃんの政府は日本を何処に連れて行きたいのか、国家経営の利益目標が見えてこない。
彼と経営学の話をし、我々ももう少し勉強すべきだと感じた。
今丁度、原田伊織の「官賊と幕臣たち」をよみ、蓮池徹の「拉致被害者達を見殺しにした安倍晋三と冷血な面々」、ケント・ギルバートの「自虐史観のあほらしさに気づいた日本人」、馬淵睦夫「世界を操るグローバリズムの洗脳を解く」は現在進行形の諸々のニュースを味わうには絶好の香辛料だ。
戦後70年、そろそろアメリカやマスコミから掛けられた催眠から解き放たれる時期なんかも知れない。
こんな事が語り合える仲間が近くに居たことと、自分の変身に感謝
朋あり、遠方より来たる
降ったり、晴れたり、寒波が来たり
雪国にとっては「ハワイみたい」な冬が過ぎて行く。
雪が少なく、今年の『風船一揆』は中止との連絡が来た。
記念すべき40回目だったのだが・・・もう40年か・・・
「明日の鯖石を創る会」だの『風船一揆』だのと夢を語り
俺は皆の夢を蹴飛ばして『創風システム』を起こした。
社名は新しい夢であり、昔の仲間への謝罪でもあった・・・。
ジャカルタの山田さんが柏崎に遊びに来てくれた。
子曰はく、
朋有り遠方より来たる。
亦楽しからずや。
人知らずして慍みず。
亦君子ならずや。と
信州大学医学部で気球を思いつき、我が庭の「日本気球会館」で制作し、日中友好協会を動かし河北省石家荘でフライトを楽しみ、徳州会の徳田虎雄を動かしアキノ大統領就任1周年記念のマニラで大群衆の中での係留を楽しみ、彼はジャカルタで医療を志した。
異国の地で悪戦苦闘しやがて独立をし、今はスタッフ150人の医療法人を築いている。
独立の時、「その夢を手伝わして欲しい」と俺は言ったのだそうだ。そんなこと言ったのか、もう忘れた。
預かり証も領収書もなしで、そうしたのだと。
もう既に全額返して貰っているけれど、その『恩』を返しに時折柏崎を訪ねてきてくれる。律儀な男も居るもんだ。
そう言えば、会って1週間の女性にプロポーズし、戸惑う彼女に「俺のことは石塚に聞いてくれ」と宣い、彼女は見も知らぬ俺に電話してき、俺の「間違いない」の一言で嫁さんになってしまった。
何年か後、勤めていた東北の病院の余興で三味線を弾く旦那の脇で小太鼓を叩きながら「石塚さん、これで良かったのでしょうか」と言われ「良かったんだ、間違いなかったんだ」と答えた時の、あの場の情景が今も忘れられない。
宇宙は広く、そして人間は温かい。
「天才」 石原慎太郎
作家としての「本音」が聞こえてこない。
人間としての『味』と言った方が良いのかな
丁度、青木直人の「田中角栄と毛沢東」を書棚から引っ張り出し、読み終えたところだったから「天才」を買ってみた。
一言で言えば「ゴミ」だね。
「俺」の一人称で語る「つぶやき」のような体裁だけど、角さんの子供達を実名で語るなんて「小説」じゃない。読み終えて、こんなに後味の悪い本は久し振りだ。
石原慎太郎もボケたのかな。
浪人時代、神田の出版社で早乙女勝元や早船ちよ、「人間の条件」の五味川純平に接したことのある人間にとって浅すぎる、のだ。社長は共産党の論客であり、色々な人達のお茶出しをさせて貰った。当時、お茶出しは住み込みの仕事であり、夜遅くまで続く高名な人達の談論風発は側で聞いていて涎の出そうな時間だった。
だから、と言っては主体性がないが、家に戻っても共産党シンパみたいであり、地方選挙の時は共産党候補の応援弁士も勤めた。
当時、俺は田中角栄が許せなかった。
しかし、ロッキード事件の後、あの22万票を掘り起こした選挙はギラギラに燃えた。あの野立ちの選挙演説を聞いた者にとって、「角さん」は鳥肌が立つような存在だった。
やがて俺は「明日の鯖石を創る会」を組織し、バスを連ねて目白に押しかけた。
草の根の、あの祈りにも似た思いを、石原慎太郎如きが知るはずもない。「田中角栄と毛沢東」ではそれが針を刺すように伝わってくるのだが・・・。
どなたか飯田直固をご存知ありませんか ?
かれこれ40年ほど前、鯖石は「八石山埋蔵金」の話題で賑わっていた。
事の真偽は定かではない。ただ、大阪から来た人は大真面目に埋蔵金探索に精を出していた。
彼らの話ではこうだ。
蒋介石が大陸から撤退する時に、宋美麗の実家の財宝を運んで八石山に埋めた、と。
待て待て、待てよ、眉唾物だが、何故八石山なのだ ?
敗戦時、中国に残された日本軍や日本人が安全に故国に引き揚げられたのは覆面の司令官と言われた人の功績なのだ、と。
えっ、待てよ、その覆面の司令官と八石山になんの関連があるのだ?
その人は八石山の人だから、よ。運んだのは児玉誉士夫だ、判ったか ?
話としては面白かったが「ふーん」で終わり。やがて財宝が見つかり、お礼に善根滝の近くに橋を2本寄付して帰った、とさ。 その時も「ふーーん」で終わり。
何年かして、子供の八石登山に付き合わされた時、「八石城址」の碑に「中将 飯田直固」の文字を見つけたけれど、それで終わり。
あれから30年以上が過ぎた。
先祖か世話になったという加納の清龍寺に時折お参りに行く。昨年伺った時、志田ティさんにお会いし、『覆面の司令官』の話を聞いたら、飯田直固中将は小国八王子の人で、お墓が境内の墓地にある、とのこと。
その後、詳しい話は聞く機会を失している。貧乏性の性だ。
インターネットで調べてみたら、近衛師団長をしていたこともあり昭和天皇の信任も厚かったという。
面白いことに東条英機、山本五十六と同じく1884年の生まれ。ただ退役が1941年と微妙な所が気に掛かる。
日本軍と毛沢東、蒋介石は意外なところで繋がっていたのかも知れない。
どなたか詳しい話を聞かせて貰えませんか ?