悪さ古稀
古稀を迎えて惚けることも儘成らず(自覚症状が薄いだけ?)この経済の大混乱の中で先の見えない右往左往している。
自分の誕生日を祝い、東京ではスカイツリーをオープンし祝ってくれている。そんなにして貰わなくても良いのだけれど・・・ナンテ馬鹿な話もしていられない。社員に笑われている。
この日を迎えられたのは、早死にした親達に代わって6人の兄姉が自分達の子供同様に育ててくれたお陰だ。幼い子供を残して旅立つ親の願いでもあったのだろう。
もう、その親の年を遙かに超してしまった。みんなに電話して元気な声も聴き、お礼も言えた。嬉しいね。
子供達からはメールや電話が届き、今度の土曜日に集まってお祝いすることになっている。楽しみだ。
娘からは孫の写真が送られてきた。孫馬鹿には成るまい、と自制していたのだが、決意も緩んできているようだ。
古稀。もう少し悪戯に時間を掛けてみたいと思っている。熱気球、バイクと思っていたが原罪は自分の墓に夢中になっている。墓地は確保出来た。墓は木製にしようと工務店にお願いしている。丸太で囲まれた木の塚なんて、チョット素敵じゃないか!
谷根
何という寂しさだろう。そしてまた、何という満ち足りた気持ちなんだろう。相反する感情が渾然と一つになって時間が過ぎていく。
会社の建設システム課に「高橋まり」さんという華やかな女性がいた。会社を辞め、違う会社に勤めたが暫くして谷根トンネルの崖の上から落ち、亡くなった。
15日、長岡日赤での人間ドックの後、何かに誘われるように六日町まで足を伸ばした。インターを降りて、そういえば随分と前だけどまりさんと美晴さんと営業に出て、回転寿司を食ったことを思い出し、探したらその店らしきのがあった。妻に昔話をしたら覚えていて二人でまりさんの思い出を語っていた。
18日、元の上司の配野課長が「まりさん」の命日の話をしていたと聞き、不思議な縁を感じた。「社長、忘れていちゃイヤだよ」そんな声が聞こえたようで、堪らずに土曜日に花と好きだったビールを以て現場にお参りに行ってきた。
会社経営をしていると、いろいろなことがある。
葉室麟の本に沈んでいる。10冊以上も買い求め、こんな書き手がまだいたのだなと、深い感動の中で読んでいる。
「生ききることだ」と葉室は何時もそう書いている。
椿山荘
連休の中休みの5月1日、変な言い方かぁ・・・、新橋から目白台に会社を移されたお客様のお祝いに、久し振りに東京に出てきた。
目白は角さん(田中角栄)事務所に何度か行った。しかし、直に町を歩いてみると、東京とは思えない落ち着きのある町で、すっかり大好きになってしまった。
椿山荘でお昼をご馳走して貰い大感激。椿山荘は過去1,2回来た程度だが、都会の中に自然を残した風景はとても素晴らしい。
食後、裏に出たら、そこは江戸川公園であり桜並木の散歩道が続いていた。いい雰囲気の街だ。
午後は新大手町センターで一般社団法人日本アスファルト合材協会の通常総会と講演会、懇親会があり、参加させて頂いてきた。
時代が変わり、もう知っている人が少なくなったが宇佐美元常務理事の顔も見え、配野君の紹介で多くの人達と名刺交換が出来、懐かしい話を楽しんできた。
偶には東京に出るのもいいモンだ。ただ朝7時から夜の11時くらいまでの出張は、さすがに限界を感じてしまう。
白き嫋やかな峰
午前中、少し寒いけど春の陽気に誘われて枡形山城址に登ってきた。360度の展望が開け・・・残念ながら南の方角は林に隠れて見えない。
不満が残り、高柳町栃ヶ原に車を走らせてきた。交通止めの看板を無視し、仙田に向かう途中、新緑の向こうにまだ多くの雪を残した上越国境の山々が見えてくる。
車からデッキチェアを引き出し、道路脇で絶景に見とれる。何という至福の時間・・・。
夕方は自分の菩提寺と勝手に決めている周広院に出かけ、自分の墓地を決めてきた。八石山を正面に望み、すぐ裏が杉とケヤキの林で、これ以上望むべくもない。死後、家族に迷惑を掛けないよう生きている内に墓だけは建てておきたい。「石塚家」なんてのは石塚修らしくないので「如風」とだけ彫っておいて貰おうと思っている。「人生、風の如し」。
心の安まるような自然石を探そう。
矢島君、慶子さん結婚式
会社では5組目になる社内結婚の式に招かれてきた。
こんな「出会い」を作れたのを社長の立場として嬉しく思っている。
多少照れくさいけれど、主賓としての挨拶は下記です。
お祝い
矢島衛君、西須慶子さん 念願の結婚おめでとうございます。
また矢島家宮沢家の皆さん、西須家の皆様に心よりお祝いを申し上げます
私はただいまご紹介を頂きました創風システムの石塚修です。
本日の主役2人が会社の社員でいてくれる縁でここに立たせて頂いています。
東京生まれの矢島君と、東京銀座のファッションの最先端で働いていた慶子さんとの2人が、同じ時期、私の会社に勤め始めたのは、多分大きな神の意志が働いていたとしか思えないのです。
今日も、このお祝いの席に大勢の同僚がお招き頂いています。周りから見ていて、この二人が何時どうなったのか、どちらが先に動き出したのか、彼らに聴いてみて下さい。日報を詳しく見れば判るかも知れません。
矢島君のお母さんの実家である宮沢家は、旧南鯖石村小清水に52代にわたり1100年以上続く鯖石神社を守り通していられます。戦後東京で車のブレーキメーカーとして活躍された先代宮沢益二郎さんが、同時に鯖石神社を守り通してこられたことは、南鯖石出身の我々の誇りであります。
また、大正時代小清水集落と鯖石神社に多大な被害をもたらせた「小清水の大ぬげ」は東大の地震研究の源流でもあり、神への祈りにより鎮まっていることも知っているつもりです。
昨年、東日本大震災のあと、矢島君西須君と3人で津波の痕も生々しい南相馬の海で、鎮魂の祈りを捧て来ました。多分、生涯残る思い出になるのだろうと思います。
慶子さんは、内に秘めた激しい自分を持っています。スプリンターとして、ファッションの最先端で戦い続けてきたのだろうと思います。今、本当に安らぎの場を得られたのかなと、少し離れたところが見ながら、嬉しい気持で一杯です。
後で、ボーカリストとしての矢島君の歌を聴かせて貰うのを楽しみに、二人へのお祝いの言葉にさせて頂きます。
今日は大変おめでとうございました。