啓蟄

2014.03.06 風の戯言


 暦の上で、今日は「啓蟄」

 春が近づき、土の中の虫が動き出す時期と理解していた。

 Wikipediaでは「大地が温まり冬眠をしていた虫が穴から出てくるころ。
 『暦便覧』には「陽気地中にうごき、ちぢまる虫、穴をひらき出ればなり」と記されている。
 柳の若芽が芽吹き、ふきのとうの花が咲くころ、とある。

 残念ながら今日は雪の舞う荒れ模様。
 やっと春が近づいたのに、また逆戻りのようなお天気。
 北海道の低気圧は966hPa、酷いはずだ。

 こんな雪の日は、武蔵野の林の中を歩きたくなる。
 無性に、枯れ草を踏んで歩きたくなる。

 3.11が近づいている。

 写真は「じょんのび村」の夕暮れ。

春を呼ぶ「風船一揆」

2014.03.03 風の戯言


 小千谷に春を呼ぶ「風船一揆」が開かれた。

 昨年は悪天候で飛ぶことが出来なかったけれど、今年は穏やかな曇り空の下、風が全くないので、外に飛び去ることが出来ず、山本山の麓の西谷会場の上空で遊べたという。

 もう38回になるのか !

 老兵は死なず、ただ消え去るのみ。

 今年も車の中から走りながらの観戦だった。
 
 写真は「越後風船共和国」代表 金子修一さん 撮影

春霞 ?

2014.02.26 風の戯言


 今日は朝から暖かく、山には春霞がかかっていた。

 2月の末とも思えない長閑な風景に感動し、会社を目指した。八石山は写真のように霞んでいたが、米山は姿も見えない。

 何とはなしにPM2.5の測定器が欲しくなり、社員に調べておくように指示。

 ビックリしたのはお昼のニュース。

 新潟県のPM2.5の測定値が100を超えているところもあった。基準が70なので相当オーバーしていることになる。

 春霞、どころではない。

 中国は一丁前のこと言っている場合じゃないぞ。

富士山 !

2014.02.23 風の戯言


 雪空の下で暮らしていると、時折矢も楯もたまらず関東の枯れ野を歩きたくなる。

 富士山を見ながら、林の中を歩けたら・・・そんな想いが病のように拡がり富士宮に行ってきた。
 長岡を12時半に出たら、富士市には15時半に着いた。何と、3時間でしかない。

 残念ながら富士宮のビジネスホテルからは雲がかかっていて富士は裾野しか見えない。陽が西に傾き、夕暮れが近づいたとき、雲間に富士の山頂がちょっとだけ顔を出した。

 「おう、来たか・・・」

 富士山が、疲れたかすれ声で呟いたのが聞こえたようだった。

 翌日も朝から雲がかかり、富士は見えず仕舞い。

 身延線で富士市に戻り、東海道線で清水に立ち寄り、青春の傷跡が残る三保の松原と日本平を駆け足で回った。

 新幹線の窓から、温かそうな日を浴び、庭先にミカンの木がある農家が魅力的に輝いていた。

 写真は日本平近くの梅林にて。

70歳死亡法案可決 !

2014.02.20 風の戯言


 2020年2月21日、衆議院特別委員会は「70歳死亡法案」を賛成多数で可決した。これにより日本国籍を有するものは誰しも70歳の誕生日から30日以内に死ななければならなくなった。政府は安楽死の方法を数種類用意する方針で、対象者がその中から自由に選ばれるように配慮するという・・・・と、そんなギクリとする小説が発売されている。著者は垣谷美雨。2012年2月。幻冬舎。 
 
 財政破綻寸前の日本政府は、高齢化により70歳以上が30%を超え、国家財政の行き詰まりを解消するために「死亡法案」を強行採決した。法案は2年後から施行され、初年度の死亡予定者数は既に70歳を超えている者も含めるために約2200万人に達し、次年度以降も毎年150万人前後で推移するという。
 いつかこんな議論が始まるだろうと予測していたが、やはり出たか、という感じの本だ。本の帯に、「日本のために死んで下さい」、「2年後、やっとお義母さんが死んでくれる」とある。本音が出過ぎていて、怖い。

 古来、不老長寿は最高の願いであった。しかし現代、「長寿」は本当に幸福なのか? 人間が必死になって求めてきたものに、今は疑念を超え、絶望すら感じ始めている。

 3.11東日本大震災が与えたものは「人は努力すれば幸せを掴むことが出来る」という神話の崩壊だろう。大災害や戦争で日常を奪われ、絶望の淵に追い詰められたことは何度かあったが、人は未来を信じ不死鳥のようにまた立ち上がり、以前よりも大きな幸福を掴んできた。だが3.11以降、その価値観が根底から揺らいでいる。

 日本の高齢者は3000万人を超えたと言われ、世界の人口も70億を超え、2050年には90億人が予測され、人間から食料と夢を奪おうとしている。

 人間は「老衰による自然死」こそ人間の理想と考えてきたけれど、現実は多くの人はベッドで横たわる「植物人間」で最後を迎えることが多くなった。

 長寿が「幸せ」だと信じるから医者は自らの使命に心血を注ぎ、親族は介護に多くのエネルギーを割いてきたのだけれど、しかし、今それは「みんなにとって幸せ」なのか。
 
 人生とは何か? 
 新たな問い掛けが始まっている。生きる意味は何処にあるのか。人は皆その問いに自分の答えを見つけ出さなければならない。

 「人生は無」だろうけれど、絶望の先に微かな未来があった。

 人間の最終死亡率は100%、何時か必ず死ぬのだから「生きている、今」を大切にしなさい。結局それしかないのだろうけれど、今は虚しさすら漂わせはじめている。

 願っていた「長寿」が実現し、心の密度は薄くなってしまった。「姥捨て山」ではない、与えられた生命を全うできる「何か」が必要なのだ。

 かく言う俺も、もう70歳を過ぎてしまった。