藤の花林道
ぶどう村から黒姫の山裾に向う広域林道は今藤の花が美しい季節を迎えている。藤の花は、それだけ山が荒れていることなのだが、やはり美しい、と思う。雨上がりの林道はウツギも咲き始め、新緑の中に心奪われる風景が続く。
清水谷集落の手前で道を横切るタヌキの夫婦(不倫のカップル?)に出会い車を止めて暫らく観察。気持ちの悪い存在に気付き、警戒しながらも田圃の畦で何かを食べている。カメラを構えて2,3メートルまで近づいたが逃げられてしまった。
長岡の酒井無線の社長、カマキリ博士として有名な人だが、彼はタヌキとも話が出来るらしい。世の中にはそんな人もいるのだろうが、タヌキとネェ・・・?
久米、水上、苛島、清水谷、北向と集落は山に向かうに従い寂しくなってくる。かつては祭囃子が聞こえ、村人達の賑やかな日常があったのだろうけど・・・。時代と共に村人は町に出、東京に出て行ってしまった。それぞれが自分の人生の幸福を求め都会を目指してゆくのだが、俺には人間どもを集めておいて一網打尽にする悪魔の仕掛けのように思えるときがある。
余計なことを考えない方がいいのだろう。新緑の中に藤の花とウツキが咲いている。それを美しいと思う自分が居る。人間って何なんだろう、かね。
タケノコ戦争
桜が散って、「青すだれ」という名のもみじの若々しい緑が何とも美しい。山々の緑は日増しに濃くなり、牡丹が咲いて、パラの蕾が膨み、季節が移っていく。
芝生も日ごと色を濃くしているのだが、その合間にタケノコが勢い良く芽を出してくる。「タケノコ戦争」の始まりだ。土日と平日の夕方はキョンシーとの戦いで明け暮れる。多分、ちょっと家を空ければあっという間に竹林になってしまうのだろう。それもまた楽しいのかも知れないが・・・。
そんな庭に蛇が挨拶に来、鳩が雛を見せにやってくる。自然の動物に餌をやるのは禁物だが、ちょっとだけランの餌をさっき居た辺りに撒いてみた。残念ながら、待てど暮せどあれから姿を見せない。全く、素直な母親じゃないな!
写真は先17日、うら若き美女二人と夕陽を見ながら一献傾けたいと設営したが、生憎朝から風強く雨強く我が望みを神は聞き入れてくれなかったか、と諦め掛けた夕方西の空から青空が覗き、陽光が指して来るではないか!
望みは最期まで捨ててはいけないよ、我が神は微笑んでくれた。
初対面の美女二人の話が弾み、新しい柏崎を作ってくれるような、そんな予感が感じられた出会いだった。
牡丹の花
庭の牡丹が咲き始めた。
馬鹿な花で自分の重さを考えないで、身に過ぎた大きな花をつけている。でもまた、あの大胆な花は大らかでいい。
最近続けて30代女性講師の講演会を聞いている。2人とも世界を見て来た人達なので、日本という国の特質や美しさについて絶賛する。
世界第2位の経済大国日本の基盤になるものは真面目さと働くことの好きな民族である、という点。特に目的が見えたときの日本人のやることは凄いと思う。大戦末期の風船爆弾なんて、こんな馬鹿げたものを物資の乏しくなった日本でシステム的に出来たことの方がおかしいくらい。そして又、同じ爆弾とはいえ原子爆弾と何と大らかなことよ。
南京大虐殺の宣伝効果、ホロコーストとのリンク。アングロサクソンと漢民族による日本包囲網の戦略が丸見えになってきている。
日本は戦争に負けた。こんな真面目なやつが又一つにまとまったら何をしでかすか分らない。だから教育により民族性をダメにし家畜のように働かせアメリカに利益を持って帰るシステムが段々大仕掛けになってきている。
そんな日本も戦後60年を過ぎてさすがに考え直すようになっている。靖国を巡る攻防は手先と愛国者の鬩ぎだけでなく米中の日本包囲網の観点から見ていくべき、と彼女らは言う。
若い美人講師に「そうでしょ」といわれると霧が晴れてくるように愛国者になる。
日本は素晴らしい国なのだ。ただ調子に乗ると深く考えなくなる、というか誰も勢いを止める人が居なくなる。「武」という字は矛を止めるという意味だという。
ゴジラの口臭
人は自分のことしか考えていない、とか、人は自分の見たいものしか見ない、とか言う。
人とはそういうものだ、という認識がなければ人間社会でのコミュニケーションは始まらないのかも知れない。
塩野七生は「人間とは何か?」の問いからローマ史を書いたという。全てはその問いから始まると。
自分の欠点は自分では気がつかない、それはそれで可愛いのだけれど「放っておくと大変なことになりますよ」。ゴジラが火を噴くような自分の口臭も自分では気か付かない、ということか。
話が逸れたけれど、人は自分のことしか考えない人間社会だから他人のことに思いやることが大切、って言うか人にもてるのだろう。いくらコミュニケーションが大事だと言っても「俺が、俺が」の人に人は大切なことを話たがらない。
愛とは何なのか、俺にはわからない。自分のことしか考えていないからだろう。
山に新緑が輝き、田は早苗に色気づき、俺の愛は乾き物になった。5月、かぁ・・・ビミョーな季節だなぁ。
遺伝子の乗り物
一昨日は東京7時間ぶっ通しのセミナーに参加。昨日は午後から新潟の講演会を聴講。些か狂気じみたスケジュールではあるが、人生幾つになっても運命の出会いというがある。
昨日の講師は渋井真帆さんという30代のバリバリの美人。しかし、ただの美人講師ではなかった。
宇宙飛行士の毛利さんと対談する機会が有った時、楽屋で初対面の渋井さんに毛利さんはいきなり質問をぶつけてきたそうな。
「渋井さん、人生の究極の幸福って何だと思いますか?」
即座にこんな問いに答えられる人はいないだろう。
「人生の究極の幸福は進化することだ」と毛利さんは言ったという。それは人間は遺伝子の乗り物に過ぎず、今現在自分の身体を支配している遺伝子は地球上に生命が誕生して以来、単細胞の時代から幾多の絶滅の危機を乗り超えてきた遺伝子である・・・そういうことになるのだ。
幾多の絶滅の危機を乗り越えてきた、いわゆる進化した、激動する環境変化に対応してきた遺伝子は、進化し環境に対応すること事態を是とし、楽しいと感じている筈だと言う。
前向きに生きる人に感動し、惹かれるは遺伝子に組み込まれたプログラムの仕業だという。高橋尚子やイチローなどのアスリートに興奮するのは、限界を超えて頑張っているイチローの遺伝子に対し、己の身体に乗り移った遺伝子の興奮のなせる業だという。人は未来に挑戦することを喜ぶ遺伝子に支配されているのだ。
だから、何時も後ろ向きの言葉を吐く人を嫌だな、と思うのは組み込まれた遺伝子のプログラムと違うからだ。
松下幸之助には「世の中は常に生成発展するものだ」とい強い信仰がある。どうせバブルの夢の跡だろう、と深くは考えなかった。しかし違ったのだ。リチャード・ドーキンスや竹内久美子の遺伝子学の本と渋井真帆の話で松下幸之助の言葉の意味が解けた。
我々は進化を喜びとする、人生の究極の幸福とするプログラムをインプットされた遺伝子の乗り物なのだ、ということか。