「置かれた場所で咲きなさい」
文春2月号の書評で渡辺知子「置かれた場所で咲きなさい」が紹介されていた。父が2.26事件の時、目の前で銃殺され現在はノートルダム清心学園理事長をつとめる彼女のことはテレビ、雑誌等で知ってはいた。
ただ、こういう人は苦手だ。
今回は「作家・元外務相主任分析官」の肩書きで、インテリジェンスの世界に棲息した経験と知見から現代を論評する佐藤優が、キリスト者の立場から紹介したこの本に惹かれた。
俺は「ポジティブ・ニヒリスト」を自ら任じている。
無限の宇宙の広がりの中で、自分の存在なんて殆ど無意味。
ただ、生きているからには楽しく生きよう。そんな程度。
「置かれた場所で生きなさい」
人はどんな場所でも幸せを見つけることが出来る。
渡辺知子はそう言う。
俺の場合は先天性のノータリンとしか言いようがないが、子供の頃に両親を失いながらも、兄姉達に育てられた自分は幸せだと思った。
親権者の義兄に「俺は幸せだ」といった時、「そう言ってくれるか ! 」と泣いて俺を抱きしめてくれた。
遠い、思い出。
貧しい大統領の言葉
今日の毎日新聞、「水説」の欄にウルグアイのホセ・ムヒカ前大統領の魅力的な言葉が載っていた。大統領就任時、資産は約18万円相当の自家用車だけだったというので有名な人。
「貧しい人とは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、幾らあっても満足しない人だ」
2012年、リオデジャネイロでで開かれた「国連地球サミット」での演説だ。演説全文が世界に流れ、多くの人が共感したという。
「よみがえる戦前日本の全景」も読むに値する本だ。
戦後70年、と第2次世界大戦だけが論じられていたが、戦前の生活、「おしん」の風景にあまり触れられていなかったようだ。その中で、夕飯は10秒、との文章に愕然とした。雑穀を混ぜた1杯の御飯にお湯を掛けて沢庵2枚で掻き込むと10秒かからないのだという。
遊び呆けていた子供の頃、「夕飯時に人に家に行くな」と家人にきつく言われていた。ある時その意味がわかった。
現代は豊かになった。
ただ、「欠食児童」はまだ多いという。
同じ新聞の「余録」の欄に
「人生には第2の機会はない。今、手のひらにあるものを握りしめて前に進むしかないのだ」
戦時下のシアトルの「あの日、パナマホテルで」初老を迎えた主人公が苦難の過去を懐古する一節だそうだ。日系移民の12万人が「敵性外国人」として内陸の収容所に移送させられたという。
パラオの海も美しいけれど、哀しい海だ。
戦いひにあまたの人の失せしとふ
島緑にして海に横たふ 陛下
アジサシ舞うパラオの海の波静か 草風
俺が 裕次郎 だったころ
チャンネルを回していたら石原裕次郎の歌が流れてきた。
裕次郎は良家のやんちゃ坊主で、少し崩れていて、高田工業高校生だった俺たちの「アニキ」のような存在だった。
映画館を出てくる時は、俺たちは皆「裕次郎」になっていた。
学生帽にアブラを塗って、少し斜めに被れば「裕次郎の舎弟」になっていた。
他校の連中と揉め事になり、金谷山で大立ち回りをやる。俺はいつも「立ち会い」、まぁ行司みたいなモンをさせられ、警察の手が回った時、皆が逃げ、俺が捕まる。警察は「またお前か、喧嘩はどうした?」「何もなかったよ」そんな会話で終わり。
後で聴いたら俺を取り調べた警官は、逃げた中間の親だった・・・、家で親爺がお前のこと褒めてたぞ・・・ナンテバカみたいな話がいろいろあった。
学校内や他校とのトラブルが発生した時、青田川に架かる橋のたもとの下宿の部屋は談合部屋になった。
お互いが言いたいことを言い尽くす頃合いを見て、手を打たせる。「いいか、今後は仲良くするんだぞ」なんて。
皆が俺の言うことを効いたのは、俺の部屋には酒があったから。ヤクザの真似をし一献一献仁義を切って回しのみし、後で橋詰めのラーメン屋からラーメン取ってやると、トラブルなんて何処かにぶっ飛び、みんな仲良しになる。
山の中の土豪みたいな、土方の親方の家で育てば、そんなになってしまうのだろう。
高田工業、高田高校、高田農業、能生水産。各校にそれぞれの猛者が居たが、皆裕次郎になりたかった仲間達だった。
雪の夜に、何か懐かしさが込み上げてきて止らまらなくなるのだ・・・。