ブルームーン
鬼ヤンマが飛来し、アゲハ蝶が舞い、アブラ蝉が庭で羽化し,書斎の窓辺では若い稲穂が静かな海の波のように揺れている。
近くの居酒屋で酔っ払った我を心配し、ブルームーンを語りながら、若い友人が田圃道を送ってきてくれる。
夜はタヌキが畑のトマトをかぶり付きにに訪れ、収穫の手伝いをしていく。
8月になった。
昨日はお寺の盆うち、今夜は親戚のお通夜で懐かしい顔と「お元気でしたか」と語り合う。
怒りや悔しさを風の中にまき散らし、無言で月を見ている。
自然の中に溶け込んだこんな生活に酔い痴れている。
写真は石塚誠さんのブルーナイトヨコハマ。
手前の大型船は「飛鳥」か?
遠くに「ベイブリッジ」が見える。
我が青春の山下公園、大桟橋、沖中仕の生活が蘇る。
ベリリュー島
ホテルの近くの「パラオ港」から高速艇で1時間くらい南西にある人口600人とも374人とも言われる小さな島。
高速艇で行く海は、南の太陽に照らされて青く輝き、コバルトブルーに変化し、珊瑚礁の浅瀬では緑色やミルク色に輝く。
島々は珊瑚礁が隆起し、島の裾は潮風に洗いとられ、オーバーハングの自然の防御壁になっている。
コロール島とベリリュ−島の間にあるロックアイランドは2012年7月に世界遺産に登録されたのだという。
この世のものとは思えないパラオ諸島の中でベリリュー島が何故激戦の舞台になったのか ?
当時日本の委任統治領であったこの島に日本はアジア最大の飛行場を築き、北西太平洋の作戦拠点としたらしい。
ベリリュー島の大抵抗戦=玉砕戦が、硫黄島に続き、沖縄に続き、原爆に続くのです、と友人は教えてくれた。
ベリュリュー島は、悲しみの島です。良くぞ、陛下はご訪問なさったと思っています、と続けている。
この島の南端に「西太平洋戦没者の碑」がある。
俺はこの碑に冷えたペットボトルを1本供え、ただ静かに頭を垂れることしか出来なかった。
戦争とはなんだろう ?
戦争を仕掛ける人達には、体ごと破砕され、遺骨の収集も顧みられない「兵士」は、個性も人格もない、俺が子供の頃飼っていたニワトリと同じ物でしか無かったのかも知れない。
悲しいね。
終戦後、いや敗戦後・・・やっぱり終戦後か、70年経とうとしている。
俺は当時3歳だった。
小さな提灯のような電球を覆う長い傘の下で、親兄弟達がヒソヒソと話していたことを思い出す。
「アメリカ軍はカミナリみたいなものに乗ってきて、日本人を片っ端から皆殺しにするのだそうだ。
子供心に、凄い恐怖だったことを今でも思い出す。
先人達が自分の命と家族と夢を犠牲にしてやっと掴んだ「平和」を俺たちも未来に繋げていかなければならない。
「平和」
南の島々で、そんなことを考えていた。
パラオ
長い間の夢だったパラオに行ってきた。
陛下が慰霊に訪れたベリリュー島に自分で行きたかった。恥ずかしながら、今までこの島の玉砕を知らなかったのだ。
あの島に行って、俺も祈りを捧げてきたい。
そんな想いが老体を突き動かしていた。
あの島で散っていった多くの人達が、こんな美しすぎる島で何故死ななければならなかったのか、どんな思いで死んでいったのか、どんな人達だったのだろうか ?
俺は陛下が祈りを捧げられた平和記念碑に冷たい水を供え、そんなことを考えていた。
パラオの旅は倅が添乗員兼通訳兼スポンサーだった。
いわば、介護付き旅行。
そんなパラオの旅で思ったこと。
ここの人達は比較的よく働き、対日感情も良いと聞く。
台湾も、タイも、ミャンマーもそうだという。
ベリリュー島最後の決戦の時、守備隊長中川大佐は現地の人達をみんな島外に避難させたという。そんな「伝説」が今も生きているらしい。
人は優しくしてくれる人に、大切にしてくれる人に好意を抱くのだろう。
日本軍は現地の人達にできる限りのことを尽くしたという。
逆に悪感情を持っている人達には厳しくなる。
日本の世界遺産登録にイチャモンをつけた国を好きになれない。理屈じゃ無い悪感情が駆け巡る。
そして今日、7月16日は中越沖地震から8年。
確かに存在した「時」が流れてゆく不思議を感じる。
復興の祈りを形にと、大晦日の夜に108発の花火を上げようとした想いも、今は懐かしい思い出となっている。
黙祷。
写真は窓が無いセスナから見たパラオの島々。