元南鯖石小学校のコスモス
鯖石街道を走っていたら、旧南鯖石小学校の跡地にコスモスが咲き乱れていた。優しい秋の風に揺れて、懐かしい風景に忘れていた子供の頃を思い出してしまった。
小学校の頃はいろいろあって、消えてしまった方がいいのかと本気で思うことが何回かあった。思い出したくない過去だけれど、6人の姉や兄に助けられて生きてきたように思う。5歳の子供を残して息絶えようとしている母が姉に手をあわせて「この子を頼む」と言い残して身罷ったという。
母の思い出といえば、中門寝間の奥の方で枕元に薬を山盛りにして寝ている姿だけ。会話もあったのだろうが、何も覚えていない。全て忘れてしまった。
親父は戦争中に村長をしていたので「公職追放」になり、仕事がなくなった。「農地解放」でが8百俵も積み上げられていた小作米の「米蔵」は急に寂しくなり、スカスカになった蔵に、闇で買い集めた「セメンシ袋」が山積みになっていた。ヤミで儲けていたようだ。「これからは相場」でと命をハリ、トラックを買い、製材工場を経て、戦後の荒波を鼻歌交じりに乗り切っていった。
やがて製材工場は大ブームになり、集まる人たちの人間を見る世界になった。
学校の休みの時は熊みたいな大人たちの酒盛りに加えて貰った。考えたら、まともな子に育つわけがない。。
冬には雪の中を出猟した人たちを待って、「鉄砲うち仲間」が集って縄文時代のような宴会が始る。
あるとき、「うさぎ」も「やま鳥・キジ」も皆食ってしまって「酒の肴」がなくなった。ボルテージの上がった宴会は何が始るか見当が付かない。
食うもんがなくなると、皆親方のところに集まる。「何が食えてぇ」と親父が聞いたら「なんかでっけぇものが食いてぇ」、「デッカイものって何だ?」 「この辺りじゃ ウシ だろう」って、この話は行田の爺さんに聞いた。
山賊の親玉みたいな俺の親父が「よし、解った、何処そこの家からウシ連れてこい」って。可愛そうなウシは庭の松の木に繋がれ、鉄ハンマーを脳天に振り下ろす者、短刀でウシの首を一瞬で切る者、あっという間に家中に焼肉の煙が広がった。だから、犬なんて何時いなくなるか判らないのだ。
いやはや本当の山賊時代の生活みたいでバカ楽しかった。酒は殆どが蜜造酒、何時まで続いていたか記憶はないが、みんな元気だった。
永遠のオールディーズ
久し振りに、古いCDに浸っている。
ナット・キング・コールやトム・ジョーンズや・・・「朝日のあたる家」のエリック・バードンなんて、もう自分の魂が地上を離れたような錯覚を覚える。
電気を消して、パソコン画面の明かりとローソクの灯が妙に気持ちを落ち着かせる。思わず「百年の孤独」焼酎のお湯割を作り、少しづつ、少しづつ心に流し込む。懐かし過ぎる時間が流れ、窓辺の椅子に佇むと・・・通り過ぎてきてしまった時間が体のどこかの記憶を伝って甦ってくる。
ルイ・アームストロングの「この素晴らしい世界」なんてせつな過ぎて熔けてしまいそうになる。
暫らく本からも、音楽からも遠ざかっていた。少しづつ戻ってきたようだ。粋なスタンドバーで地の顔で酒が呑める店を探しておかなくちゃならんな・・・・
夜は只一度しかない人生のために魂が浮遊する場所を探さなくちゃ・・・ 時間が過ぎていってしまうよ。
音楽を聴いていて、人は豊かな時間を生きてきたのだなぁ、と思う。
コスモスの向こうに
テレビCMで取り寄せた「Healing Classics」のチェロ名曲集に魅せられて聴き続けている。何年も聞いているのに些かの飽きも来ない、というより次第にこの1枚のCDに嵌りこんでいる。何回聴いても、新たな感動が込み上げてくる。
単純に記憶力が大減退しているに過ぎないのだろうが・・・心が和らぐのを感じる。
先回も書いたが、やたらに何かに感動する自分にビックリしている。そろそろ、近いのかなと思い今までやれないで心に蟠っていた事を一つ一つ実行に移している。といっても些細な事が多いのだけれど。
来月の末には「生前葬」を企んでいる。この仕事に突入する前に熱気球と政治活動にのめり込んでいた。創風システムの名前も、「明日の鯖石を創る会」と「風船野郎」を決して忘れるわけじゃないぞ、勝手に命名したものなんだ。多くの仲間を裏切って、自分でもどうしょうも無く時代の風に押し出されるようにコンピューターの世界に入り込んでしまった。多くの人たちに助けられ、多くの人たちの期待を裏切って、現在こんな状況の中にいる。
そんな仲間と、許してくれたなら、一晩呑み明かし語り合いたい。生前葬、なんて茶化しでしかないが・・・。
新潟県経営品質賞申請書の編集も最終段階を迎えている。創業者として語り伝える、或いは願いを書き連ねている。皆がどう感じてくれるかは脇に置いて、思いの丈を整理し残しておきたい。もう少しだ。
時折、友人の M さんと呑む。
読書量と記憶力がすごく、今話題の「中国ネタ」も楽しい。そういえば、尖閣以来マスコミの中国報道がゆれている。ノーベル賞も大変化に兆しなのかも知れない。どんな時代が始るのだろう。自分達でも命を掛けた通信の世界での動きで、ただ一度の生を精一杯に生きている人たちにとって、自分で納得し、自立した生き方がしたい、というかそれしか納得が行かないだろう。社会は変っていく。
秋らしき夜に
満天に星達が瞬き、暗闇の庭に金木犀が匂い立つ。
夕方まで賑やかだった虫たちのパーティも幕が下りたのか誰もいなくなった。
夜空を見上げながら佇んでいると様々な過ぎ去った日々が去来する。俺はもう過去は振り返らない。後ろを振り向けば寂しくなって生きていられなくなる。でも、最近は妙に懐かしい、暖かい思いに包まれる事が多くなった。先が短くなったのかな、なんて思いながら、不思議な感情の中で遊んでいる。
後ろを振り向くな !
前だけを見て生きろ !
大らかに、笑い飛ばして、自分も人も明るくしろ !
それが「石塚修」という生き方なんだろ?
後ろを振り向くな !
前だけを見て走れ !
満天の星に吸い寄せられるような夜が更けていく。