坂の上の雲 (2)
今日もNHK「坂の上の雲」を夢中になってみた。
多分、歴史的なメッセージをこめているのだろう。最近にないドラマ作りの真剣さが伝わってくる。嬉しいね。
『文芸春秋にみる「坂の上の雲」とその時代』を読み始めていて、司馬遼太郎が大東亜戦争の軍部の失敗を日露戦争の勝利を勘違いしてしまった悲劇、教訓として捉えていることを改めて感じた。
戦争、或いは競争は自らの眞の姿を知ることによる恐怖感から出発しなければ、いや、そうしないと情報の価値を深く感じることなく自らの妄想に突き進んでしまう危険を避けられなくなってしまう。
経営にも言えることだ。
いろいろ考えると臆病になってしまい、時代に対応した一歩が進めなくなる。情報が多いと迷いの中に疲れ果ててしまう。しかも、選ぶべき、選択し得る道は一本しかない。
頑張るより他はないのだろう。
坂の上の雲
社員の永井君から教えて貰って今日3回目のNHK「坂之上の雲」にのめり込んでしまった。司馬遼太郎は最も好きな作家で、特に「街道を行く」は全巻書棚に収まっている。「坂之上の雲」は正岡子規や夏目漱石の物語から日露戦争物語と2つの物語を一つにしたような不思議な本だったと記憶している。
最近、テレビ・新聞の方向が以前と明確に違ってきたような気がする。時代が変り始めているのだろう。沖縄の基地問題も日本の叫び声を感じるようになっている。アメリカに振り回されて独立国家として本当の幸福が可能なのか、まだ明らかな声にならない地の底からの何かが伝わり始めている。
週末には娘が娘を連れてやってくる。
そろそろ1歳と4ケ月。雪はないとは言え12月の風の中を、家に帰ろうともしないで自宅前の公園で遊んでいる彼女に、何とも言えない嬉しさが込み上げてくる。
最近は雲の色や形、紅葉や自然の美しさに以前とは違うものを感じ始めている。何となく懐かしく、嬉しく、花の形や水の色が良く見えるようになった、ような気がしている。
多分、アセリが薄らぎだしているのだろう。考えてみれば今までの時間より未来の時間が確実に少なくなっている。生命を持ったものにとって、それは決して忌むべきものではなく、それはむしろ生きるものへの祝福ではないかと思い始めている自分がある。
何時の時代でも、生きることが安楽であるはずはない。しかし、自分達の世代は歴史上稀に見る幸運な時代を生きてきたのだろうと思う。この先に何があるのか、見届けてやろうじゃないか、と今まで思いもしなかった考えが浮かび始めている。齢のせいで死に欲が出てきたのかな?
一枚のCD
小雨降る暗闇を見詰めながら、一枚のCDを流し聞きしている。12月だというのに窓を開け放したままでもそんなに寒くもない。窓辺でグラスで酒を飲みながら、暗くて何も見えない庭をボーとして眺めているのは心地が良い。もう1時を回ったのだが・・・。
「作家の使命 私の戦後」山崎豊子(新潮社)を読み続けられなくなった。作者が作品の背景を語るのには多少の抵抗がある。しかし、彼女の創作に向かう取材活動を知ることで、その小説の奥深さが増してくる、そんな思いが強い。
いろいろと批判されている作家ではあるけれど、彼女の建築家のような構想と設計、その後の細部にわたる且つ現場にたった取材、しかも膨大な資料読み込みなどを知ると、あの記述の確かな手ごたえが納得でき、新たな感動が蘇ってくる。
この本の中で何箇所かで啓示されているゲーテの格言
「財貨を失うこと、それはまた働いて蓄えればいい。
名誉を失うこと、それは挽回すれば世の人は見直してくれるだろう。
勇気を失うこと、それはこの世に生まれて来なかっ方が良かったであろう」
随分な言い方だが、誇りある生き方は何事にも優先されるべきもの、なのかも知れない。
青すだれ 秋の図
「文芸春秋」に3ケ月連続掲載された浜矩子の「経済白書」は現実の経済状況を見直すいい材料だ。この稿とジョ-ジ・ソロスの警告と合わせ読み直してみると、世界経済の脆弱性が浮かび上がり、ドバイ発の激震の未来が見えてくる。
世界は常に綱渡りなのだが、現在の状況は文明史的な変換点である事を実感させている。経済の仕組みと価値観が変わってしまったのだ。
新しい時代には新しいやり方がある。ただ過渡期の現実は単純そうで魅惑的だ。表面的な現実の根底を理解する為に知恵と情報を総動員しなくたはならないのだろう。浅はかな現実認識では目的とのギャップを埋めて行く戦略の根底の出発点がずれている事になる。
知的資産経営は人的資産経営であり、価値観のズレを認識し、共有化し、報連相によるコミュニケーションの促進、ナンテ教科書的ではない全人格を振り絞った弁証法的によるアウトへーベンが求められる。
激動期、人が生きて行くのは容易ではない。でも、それはそれで楽しいではないか。
庭のモミジがいい色に染まっていた。