ホリエモン騒動

2006年01月23日 風の戯言

 ホリエモンが逮捕されたようだ。
 一連の騒動を眺めていて、あまり愉快な感じはしない。千葉監督以来のファンとして「近鉄バッファロー」の買収騒ぎが面白かろうはずはない。個人的なことだが。

 詐欺師を経済人と呼ぶこと自体、日本全体が狂っている。天下の公党の重要候補者としたり、経団連に入会させたり、この国の指導的立場にある人たちの価値観を疑う。
 この自由な時代だもの、いろいろな価値観を持った達が居る。ただ、立場立場で自分の役割を演じなければならない。それが社会で、その暗黙の決め事の中で人は動いている。古いシステムの政治や経済組織ではそれが大切なのではないかと思う。だから、あの人たちの言動に首を傾げてしまう。

 「経済」とは人が共同して生きる仕組みのことではなかったのか。人は自分の足らざる部分を補い合い、わずかな時間を生きている。企業はその一員であり、だからこそそこで働くものは、その任務を誠実に努める事に誇りを感じている。
 
 彼らは、人を幸福にするどんな価値を創造したのか。
 降りしきる雪の中で、寂しいものを感じている。

情報とは何か

2006年01月19日 風の戯言

 西暦2001年はIT革命の時代と言われています。何しろ森総理が「IT」を「イット」と言ったとか言わぬとかで、国中が「IT」なければ夜も明けぬ国の様相を呈して来ている。

 本来「革命」とは社会体制と価値観のドンデン返しでありとんでもない意味を持っているはずなのに、いとも簡単に使われている。少し冷静になって考えることが必要なようです。
 
 情報化の波は80年代末の「ニューメディア」の時代から90年代半ばの「マルチメディア」の時代を経て現在「IT」に到達した。「IT」をどう読むかにも寄りますが「インフォメーション・テクノロジー(情報通信技術)」あるいは「インターネット・テクノロジー」と読む場合はハードまたはインフラであり、「インテリジェンス・テクノロジー」あるいはもっと「インスピレーション・テクノロジー」と読む場合はソフトよりと言えるのではないかと思っています。簡単に言えば「創る技術」か「使う技術」かと言う事であり、どうやらこの手の技術水準が一般的に使える「経済レベル」に達した時代なのかなと思います。

 「情報」と言う言葉は明治の初めに福沢諭吉が最初に使ったということですが確認してありません。孫子の兵法以来どうも戦争に纏わりついた言葉のようですが、中国のように陸続きの隣あわせに騎馬民族がいる場合、敵の動静が自分の幸福(生存)に直接関わってくる。
 
 そして危機が目に見える「動静」となる前に敵の首領の頭の中あるいは心を読み取ることが肝要となる。幸福の根源は相手の心のありようを知ること、それが「情報」の本来の言葉の意味だと、そんな観点から「三国志」を読むとまた一段と面白いのかもしれません。無学勝手流の根拠の無い解釈ですが。

 
 さて、また「屁理屈の石塚」と言われる所以ですが、人間の幸福は厄介なことに外的条件としての生存環境と内的な心の両方の満足が必要となります。今の日本は正にこの世の極楽のような世界で、アメリカでは日常茶飯事のような殺人事件が大騒ぎになり、アフリカでは当たり前のような飢えも無い。何が不足で危機的状況にあるかといえばそれは未来に希望がないからだと言う。「希望」の他は何でもある(希望の国のエクソダス-村上龍)。人類には未開の荒野を切り開く事を宿命とするDNAが組込まれているのかも知れない。金が無いのは金持ちになりたいと言う希望があるから幸福なのか・・・苦しいところだ。
 わぁー、話がメチャメチャ外れてしまった。

 コンピューターは近代合理主義の帰結みたいな産物ですが、人間の素晴らしさは人間不信による効率的な生産性と自ら安全圏にいて効率的な大量殺人マシーンをコミュニケーションの道具に変えたことだと思う。

 現実の世に戻ると不況と政治の混迷で新世紀も閉塞感が覆っている。世界一の金持ち国が何のいわれでこんな苦渋を味わなければならんのか。世の中訳わからないけど・・・面白いや。

                                               新聞投稿原稿

風船一揆

2006年01月18日 風の戯言

                                          風派同盟 祭酒 石塚 修
 
 「越後風船共和国」は「Balloon Republic」の和名である。 
 酒と夢の混濁の中から生まれた新潟県内の熱気球クラブの集まりで結成30年の歴史を持つ、らしい。年に2度ほどお祭りをしている。
 春は小千谷で豊作祈願の「風船一揆」、秋は新潟平野で収穫感謝の「風船一揆秋の陣」。
 酒と米とカニを祭壇に供え、空を飛んで神と共に食す。山と平野と海と、越後は限りなく豊かであり、友の心は温かい。

 一昨年10月23日、その大地が揺れた。中越地震である。引き裂かれ、傷ついた大地と天変地異に慄く人々の心を鎮める為に、全国の熱気球の仲間が企画し、集まってくれた。
 「風船一揆復興の陣」。  
 祈りを込めて雪国小千谷の空を舞い、直会(なおらい=神事の後のパーティ)は夜遅くまで続き、些か調子の外れた「春よ来い」の合唱が寝静まった街の通りをリフレインしていた。
 
 今年また、雪の小千谷で風船一揆が開催される。遠くから仲間が集まってくる。

 天と地と風と、一杯の酒を酌み交わす。まるでモンゴルの祭りのようだ。

唯コミュニケーション論 要約

2006年01月17日 風の戯言

                                            著者 F・ジョーダン
                                            翻訳 石 塚   修

  汝ら仲間外れにされた人間は幸いである。何となれば心の温かさを知るにより。
                                          -聖オサム伝 序章より-

 翻訳者まえがき

 古来、世界の本体を精神に求めたプラトン以来の「唯心論」、物質の根源性を主張するマルクス・ヘーゲルの「唯物論」が哲学の基調になっていた。しかし新しい千年紀を迎え、人類が産業革命を経て初めて到達した「幸福の世紀」の価値観を説明し得る哲学はF・ジョーダンの「唯コミュニケーション論」を於いて他に見あたらない。彼は宇宙系帰化人らしいのだが、本人の記憶が曖昧なので真実の生星は謎のままだ。何処の馬の骨であろうと、我々にとって知ったこっちゃない。
 我々の視野が狭すぎて、原著は一般の人間にとっては一見理解不可能な言葉の羅列でしかないが、「あとがき」で彼が言っているように執筆時酷い酩酊状態で呂律が回らなかったせいであり、あの朦朧としたハイな気分になってみれば解る奴は解るというのは正しい。バカな話だが…世の中そんなモンだ。
 殆ど意味不明な絶叫のような彼の文章を私なりに翻訳してみた。山本七平氏の苦労を再体験するようで何やら楽しそうな予感があった。何しろ翻訳者であり解説者である私には何の責任もないのだから…

第1章 要約すれば

 宇宙人の中で地球上の人間ほど不可解な行動する生物は他に類をみない。私は長い間彼らを観察し続けることにより、殆ど意味不明な行動原理が少しづつ理解できるようになった。人類が誕生し、やがて文化的な生活を始めた数千年前から現在までの、気の遠くなるようなこの間の彼らの行動を説明できるものは唯心論でも唯物論でもない。甚だ疑問なのだが人間の「進歩」と言う概念は唯物史観で説明できるほど単純ではないし、全ての生物は遺伝子の乗り物でしかないとするドーキング博士の遺伝子論や竹田久美子の面白解説は単にスケベ話でしかない。断っておくが「スケベ」とは遺伝子に精神を乗っ取られた地球上の哀れな人間達の事である。成る程人間は頭に性器を埋め込んではいるが、そんな奴らの方が実は多いのだが、世界的な遺産と言われる「源氏物語」も見方に因れば「スケベ物語」なのだが、しかし人間にはそれだけでは説明しきれない行動が多すぎる。それに人間は24時間Hしてるわけじゃないし、新井白石の御母堂みたいに灰になるまで性欲があるわけじゃない。

 御存知のように私は経済学者であり企業人でもあります。みんな半端だけれど…。いわゆる経済人として人間の行動を観察したときに、特に日本人種の海外旅行時のあの喧噪を観察してみると、自分の頭の中がシッチャカメッチャカになってしまう。何故初めて訪れる土地の風景も歴史的な遺跡も見ようとはせずに土産を買いに走るのか? 乏しい財布の中から、隣近所から会社の人達にまで、自分のものは買わずに、土産物を買いまくるのは何故か? 単純に好きな(変な)ものしか買わない自分の性癖からすると卒倒するほど気色悪い。何故自分のためにお金を使わないのか?
 しかし、「土産物研究家」として脳にアルコールを叩き込んでよくよく観察してみると、日本人種の行動原理は他人とのコミュニケーションを希求してのものだと思い当たる。考えてみると、人間は自分の誕生の瞬間を知らないし、この世に生まれた意味も知らない。食べ物を口にし続けなければ活力も生命も消えてしまう危うさの中で、内面の宇宙である自分の「心」も知らぬままに人は生きている。気が付けば身近な人との距離も以外に遠く、広大な砂漠に一人残されたような寂しさに苛まれる。淋しさを癒すものは同じような、心象風景を持つ人達と一体化したコミュニケーションだけ。 それも、触れたかなと思うと直ぐに遠のいてしまう風のような存在。存在と呼ぶにも希薄すぎるその瞬間を、少しでもつなぎ止めておかなければまたあのブラックホールに吸い込まれてしまうようなあの恐怖感。全てはコミュニケーションを求めての行動として説明できるのだ。例えば何も渡さずに正月のハワイの楽しさを語ったら、多分水をぶっかけられてしまうだろう。その前に、何でか知らないが、ハワイのチョコレートでも土産にやればジョンギにでも愛想笑いを浮かべながら話を聞いてくれる。一瞬の優越感。幻の一体感。

 20世紀後半になって情報通信と交通手段が飛躍的に発達し、人は多くの人と接することが多くなった。人生に於ける単位時間あたりの接触する人員数が飛躍的に増えたと言っていい。これは特定の人に接する濃度の希薄化を意味する。家族や学校の崩壊。人は益々孤独になり、孤独に耐えられない不幸な人達がその存在の根源に迫ることなく右往左往している。人は本来孤独な存在なのだが、それに耐えられずに人とのふれあいを求め一体感を確認している。「みなさぁーーん、最高ですかぁー」

第2章 要約したら

 我々は自分たちの棲み家である地球までもが人間の心と同じように以外と傷つき易く脆いものであることを知った。世界が単一の社会に近づき、世界と地域、文明と文化、社会と個人、外的要因と内なるもの。その辺を整理して認識しないと、またまた混乱の世紀を迎えてしまう。それにしても「20世紀の映像」に残されたように、何と過酷な時代を生きてきたのだろうか。意志の疎通を欠いたばかりに、自分の意志を旨く伝えられなかったために、そして一人ひとりがそれぞれの価値観の中で僅かな時間を精一杯に生きていることを理解できずに、人は何と遠い回り道をしてしまっているのだろうか。
 一見不可解な人間の行動原理はただコミュニケーションにある。唯コミュニケーション論と命名した次第である。この人間の弱さをターゲットのして21世紀のビジネスは爆発し続ける予感がする。産業革命に次ぐ情報革命とも呼ばれているものが既にスタートしている。たまごッチ、ピッチ(PHS)、ケータイ、或いはインターネットなど情報(情=心、報=伝える)分野の進展はまだまだ続くだろう。現代に於ける人間存在の危うさと淋しさを知っているものだけが真に理解できる世界なのだ。
 しかし、本来孤高であるべき人の「ブッチホン」なんてのは、あれは何なのだ?

以下次号に続く。(刊行未定)

不信の構造

風の戯言

  
                                             柏崎市加納 石塚修

 原発のメンテナンス現場から沈痛な呻き声が聞こえてきている。震源は友人の会社であってその点は極めて個人的なの話なのだが、同時に地域としても根元的な安全に関する問題が内在している。
 原発のメンテナンス現場で、今何が起きているか聞いていますか。

 プルサーマルの問題も平沼経済産業相が柏崎刈羽原子力発電所を視察し、何となく「国もようやく本腰を入れ始めたか」との感もあり、一件落着が近い雰囲気が漂っている。しかし、刈羽村の住民投票の結果が意味するものとは、大臣が乗り出したから直ちに解決するようなそんな簡単な「不安」ではない。経済にも深く関わる問題だけに、長い間封じられてきた行政と東電と自分自身に対する不信感がマグマのように吹き出したと言っていい。固定化した賛成・反対の相互不信の中で、不毛な討論だけが飛び交い、地域に「不信」が澱のように沈み込んでいる。行政と東電は血の出るような説明をしてきたのか。商工会議所は血の出るような議論の末に「賛成」したのか。我々は自ら納得するまでの情報を集め、勉強したのか。自分自身に照らしてみれば、いずれも「NO!」であったように思う。

 私は先人たちが血尿の末に下した結論に従う。但し、自分の目は失わない。
 この国の技術水準からいえば大きな事故の心配は無いだろうと確信している。ただ私が危惧を感じるのは、マスコミ報道と現場の直向さとのギャップだ。人は病気になり、機械は疲労する。だから医療やメンテナンスが必要となる。治療・保守と事故の区別のない一方的なマスコミの「事故報道」に現場は何時か無力感に陥らないか。仕事への熱意と誠意が失われた時、「システム」は崩壊する。取り返しのつかない惨事が起きなければいいが・・・。  
 その恐れから私は何年も前から原発サイトの「映像による情報公開」をお願いしてきた。その手段としてのCATVの実現を夢見て、自分の非力も省みず何年かの無駄な努力もしてみた。「明るい昼間に、お化けの出た例しはない」と。自ら正しいと信ずる現場のリアルタイム映像は格段の説得力を持つハズである。この情報化の時代に、直接我々に「生のママの映像」で話し掛けることなしに、何故マスコミとの不毛な戦いを続けてきたのか、不思議でならない。

 もうひとつの不安は冒頭の「現場からの呻き声」だ。経済の国際化により「国策」である原子力発電事業所もコストカットが至上命題になっており、あらゆる知恵を絞り「無駄」を省くためにどの企業も死に物狂いの努力を強いられている。しかし、「何が無駄なのか、何がコストカットの対象なのか」と私は思う。大幅なコストダウンを要求されたとき、何をどう合理化し何処をカットするのか。組織にとって一番痛みが少なく、安易な方法は外注費を削ることになる。下請けに選べる道は多くない。しかし、最先端の現場を担当している下請けは実質的な品質保証を強いられながら実働時間は不安定になっている。メンテナンスのサイクルは長くなり、しかも作業は短期間を要求される。仕事が不定期になり実稼動しか下請け賃金の対象にしかならず、高度な技能集団が待機保障もないとしたらどうなるか。ある経営者は空き時間の有効活用で苦悶し、またある経営者は当座の作業員の頭数だけ揃える。経済原則から言えば経営は常に結果責任であり、後者を不誠実とは言い切れない。しかし、誠意ある有能な現場技術者が安心して仕事に打ち込める生活保障体制と評価制度が無いとしたら、そして地域と企業が次世代の優秀な技術者を育てられないとしたら・・・。原発現場の心の空洞化。そのことにより原発のメンテナンス現場で何が起きているか。  

 最小の経費で最大の効果。これは経済原則だ。しかし、安全を守るためのメンテナンス作業が、現場の経費実体を無視したコストカットに晒されているとしたら「安全」には限度がある。必要な経費は削除すべきではない。どうしても経費削除しなければならないとしたら、現場から遠い間接経費からではないのか。現場の技術評価と技術屋の心を無視していたら必ず取り返しのつかない事故が起きる。

 東京という世界最大の都市のために安いコストの電力を提供することに異論はない。しかし、そのコスト削減のために、この土地に生き続けなければならない我々が不安に晒されるとしたら、そのシステムは間違っている。経済とは共同体の全員が僅かな時間の人生を全うできるシステムのハズだ。あえて暴言を吐くならば、柏崎刈羽原子力発電所を地元自治体で接収し、ここに住み続ける企業と技術者で運営し、不安の根源を絶ち、名実ともに運命共同体として孫子の代に伝えてゆくしかないのかも知れない。「信なくば立たず」信なくば、その企業は地域に存在する価値が無い、と思う。

 地域の信頼を呼び寄せるために下記の提案をしたいと思う。

1. 地域技術会社の採用による安全性の確保
2. 映像等による情報の公開
3. 電子入札による物資・サービスの条件付き一般競争入札制の採用

 苦境にも関わらず、与えられた自身の業務に誠実に対処している現場技術者への敬意を込めて、この一文を書いた。御批判を乞う。

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