絶望の先に未来がある。
最近咳き込みが酷くて、一時的に酸欠状態をおこすのか目の前がぼやけ現実感を失う。車を運転している時は切ない。車列がある時はおぼろげな前の車の後を追えばいいのだが、大きな咳が曲り角の時は悲惨、先の見えぬままハンドルを必死に切るのだが、今日は間に合わず交通標識に激突、左のフロント部分を小破してしまった。ショック。
どうもこの車は相性が読まないようだ。小規模ながら短期間に4,5回修理に出している。祟りがあるのかな?
20年の疲れがほとぼり出したように噴出している。まだもう少し死ぬことはないだろうが・・・。自分なりの生き方が出来なくなり「自死」を選ぶ人も増えてきているが、それもどうかと思うし、もう少ししぶとくてもいいのだろう。
梅雨の休日
季節外れの風邪に襲われ、肺癌を併発したような咳が止まらない。健康管理に人一倍木を使っている妻も理なのに、気まぐれな体調に振り回されている。参ったね。
九州、関東は大雨なのに柏崎は付き合い程度の梅雨。ナンテす黄な粉といっていると「そんじゃぁ・・・」なんてもっと気まぐれな天が集中豪雨を降らせる。クワバラクワバラ、触らぬ神にたたりなし・・だ。
中越沖地震からもう直ぐ1年。折りたたむように岩手・宮城内陸地震が起き、原発関係を見守る立場からは背筋が凍るほどの危機感を抱いている。
柏崎原発が再開のめどが立っていない時期に、もし仮に、岩手・宮城内陸地震がもう少し南、福島で起きていたら東京はどうなっていたのか。リスクマネジメントの立場から言えば「2拠点主義」は正しい。まさか離れた2点間に同時にリスクは生じないだろう、と思うからだけれど、重大案件では有効なもう一つのバックアップ・システムが必要なのかも知れない。
咳が止まらなくて、雨の休日を別途の中で過した。晴天が続いた為に草木が喜んでいる声が聞こえるようだ。気が向いたときに水撒きはするが、それも全てではない。木々や草達が不公平をなじっているけれど、世の中なんて不公平で不平等なんだと説明にもならない「答弁」をしている。
堤未果の岩波新書「貧困大国アメリカ」がいい。本来国は、税を納める国民への対価・サービスとして国民の生命と財産を守り、全ての人への義務教育を規定している。(25条、26条)。効率化の名分の下にその全てが民営化になり、当然の帰結として格差社会が生まれ、軍が貧困社会にリクルートに来る・・・中産階級も競争に敗れてやがてイラクに送り込まれていく。
日本の未来への警告書ではないのかな。
さくらんぼ
今年もまた山形の友人から「さくらんぼ」が届いた。毎年エンマ市の終わったこの季節を心待ちにしている。
齊藤君は新潟大学工学部卒業後故郷に帰り電子関係の仕事をしている。在学中は探検部に所属し、放蕩?の後、熱気球に辿り着いた。
我が家の畑に建てた「柏崎気球会館」で熱気球の設計から裁断、縫製、係留実験まで、そしてこともあろうに仲間の一組のカップルが製作中の熱気球の布の山で子供まで作ってしまっていた。貝沼君の子供は「風-はるか」と名づけられた。風を古語で「はるか」と読むのだそうだ。幸あれ!
あれからもう35年近くが過ぎていったことになる。35年も昔の青春の振れあいを大切にしていてくれて、とても嬉しい。男も女も、私の友人はみんな妻の友人になってしまうのだけれど・・・嬉しいことだ。
夕食が終わってBSを見ていたらビリー・ホリディの死後10年目に収録された彼女を知る人たちの証言集を元に構成された2時間番組。原田芳雄の語りに痺れ、珍しくテレビの前の2時間を過してしまった。
レスター・ヤングのサックスとビリーとの協演はストレートに俺の心を掻き毟り、肌を沫立てていた。「月夜の小舟」「奇妙な果実」「マイマン」等を聴きながら、人が「ジャズ」って言っているのは、きっとこのことナンダな、と納得した。音が、ソウルが全然違うんだ。酒と不幸と麻薬と絶望がごっちゃ混ぜになって、それでも生きてゆかんばならん悲しみが伝わってくる。