夏坊主
子供の頃は簡単に海に行けなかった。
自転車は無いし、バスは人の乗り物であり、海がどこにあるか知らなかった。山の上に上がれば箱庭のような街が見え、その先に青い海があった。
だから夏休みの臨海学校は、場所は番神海岸で、花火は岬館の坂で見た。興奮し自己制御できなくなった自分は全く別人になってしまっていた。そんなことが多々あった。
中学校に入ったら、多少知恵も発達してき、バンガロー村に城を据え水族館や量たちをあおって何かやろうとしていた。人間思ったことを突き進めば必ず道は開かれる。今も小名譲菜幼児性の中にいる。遠い、遠い、涙が滲んで見えなくなるように遠い 去りし青春時代
八国峠からは柏崎の町並みと海が見える。
大きな夕陽が米山の脇に沈んでゆく。
空一面の夕焼けと明日の幸運を約束している。
風の吹くままに
歴史を学ぶことは未来を知ること、だと何かに書いてあった。人間が何を求めてきたのか、それが解れば未来を推察できる、と言いたいのだろうが、そう簡単ではないだろう。
人類の歴史の中で、インターネットなるものがこれほどの力を持つと誰が予想しただろうか? 今日の「情報通信」という言葉の重さと同時性を誰が予想しえただろうか?
「大黄河」を聴きながら老子・荘子を開くのも悪くはなさそうだ。こんなのがあった。
「古の真人は、生を説ぶ(よろこぶ)ことを知らず、死を悪む(にくむ)ことを知らず、その出を訴ばず(よろこばず)、その入も拒まず、悠然として往き、悠然として来るのみ」と大宗師篇」にあるとのこと。生を悟りすぎたら面白みがない。大言壮語し、支離滅裂に苦悩と悲惨の中で七転八倒して生き抜くのも、楽しいのかもしれない。
写真は野尻湖から黒姫山?を望む。
静けさに心のさざ波報られしか 草風
夏雲群れる
大雨と洪水が去って、夏の空が戻ってきた。さは言えど8日はもう立秋。山に日暮セミが林の中で輪唱し、庭で羽化したアブラセミ達が賑やかだ。ただ、今年の蝉はすぐ逃げる。羽化数の減少から種族の繁栄を盛り返すために、一匹の蝉に至るまで、生存本能を鼓舞しているのかも知れない。
世界経済が崩壊寸前の様なニュースが流れている。小松左京の「日本沈没」に取り込まれ、以来そんな本を漁り続けていたが、最近は開き直った。
災害列島、それが俺たち先祖伝来の島なんだ。そして日本人の素晴らしさは、しっちゃかめっちゃかにやられて、もう声も出なくなった人たちが、4年もすると元気いっぱいに祭りを引っ張っていたりする。
心の傷に手を合わせ、悲しい思い出を一日だけ仏壇に仕舞い込み、今日生きてる喜びを全開させている。それが、日本民族の持つ悲しいネアカ人生なのだ。
夏雲の中に、雷光がはじけ、雷音が調子をあげ、ドンガラガンと腹に響いて、強い夕立を待っている。夏の爆発だ。
ライムライト
夢中になって「ライムライト」を繰り返し繰り返し聴いていたら村上龍の「オールド・テロリスト」(文春連載)の主人公と思しき「関口」が好きな曲をイヤーホーン大音量で聴き続ける「アブナイ」場面に出会った。少し危険だ。
しかし、古い曲はなぜにこのように歳老いた男の心を震わせるのか? 世界は違うけれど、いくらかは同じ時代を生きた震動みたいなものが共鳴するのかも知れない。ライムライトには絶望の淵で、微かにともる未来の灯が見えたような、そんな希望の欠片が感じられる。
時代はいろいろな局面を曲がり、2度と同じ時代には戻らない。次々と進化し、変化し、人々が大切にしていたものを奪い去ってゆく。
この本の中で村上龍が現代を称し「不況ではなく淘汰の時代だ」と言ったのは真実だと思う。不況は何時か好転する時もある。しかし、経済社会で自然淘汰されたものは生き残る術はない。死に物狂いで生き延びたものだけが、次のゲームに挑戦できるのだろう。
事業としては感度の鈍い奴も目を覚まさせなければならないのだが、ネンネコで育てられた子に「自主性・創造性」なんて言っても解らないようだ。セルフ・マネジメントが正しいのだろうが、時間が足りない!
暴走したいが「アラ古稀」の体は前を向けて歩かせるのに骨が折れる。
写真はぶどう村の合歓(ねむ)の木。
まだ、こんな花をつけていた。この花に、こんな名を付けた人に会ってみたくなった。