カキがつく
今日届いた「文春」9月号の阿川弘之の随筆は愉快だった。司馬遼太郎が元海軍大佐正木生虎に宛てた手紙の「カキガラ」が主題。多少成功した人には虚名と言う「カキガラ」が付着し、常にそれを削ぎ落としていないと船足が鈍る、自分の人生を生きていなくなる。そんな話。
ある時阿川の三男のお客が「君のお父さんは?」、「作家です」、「あぁ、Jリーグの・・」。この話を電話で聞いて、多少カキガラを意識していた阿川が、全く自分を知らない世界があったことで「ホッとした」気分と何か口惜しそうな気持ちを落着かせようとしていた心の揺らぎが面白かった。
誇りを持って、自由に生きる為には棄てなければならぬものも多い。取捨選択のルールは気分次第なので、大抵は後で苦労する。言い訳したり、訂正したら男の生き様に傷がつく。不器用に、肩肘張って生きるいる男が好きなのだが・・。
最近、つくづくと思うことがある。ビジネスや政治やスポーツは結果次第だ。しかし、人生は結果ではない、と。むしろ結果を意識したら本当のものにならない。航行の妨げにならぬ程度のカキガラを着けながらも、意識しないで胸を張って誇らしく生きる・・・そんなのがいいのかも知れない。
会社の後期スタート
21年度の半期決算(2-7)が間もなく出る。情報産業は納期が長いので、注意深く単月決算を積み上げて行くしかない。
例年だと後半が落ちる。ましてこの不景気で先行きが見えないのだが、「自社のアイディンティティを見つめ直し、自社の強み」を再確認することが大切だと思っている。
景況が苦しい時は顧客も眼の色を変えている。本音で経営を語れるまたとないチャンスになるのだ。「ピンチはチャンス」。昔の人の知恵は底知れぬものがある。
そんなこんなで、今日から現場に出始めた。長い間事務所にいる時間のほうが長すぎたな、と反省している。「穴熊」になっていたようだ。
営業本部長の名刺を持って得意先を回る楽しさはまた格別で、話が弾んでなかなか先には行けない。ある意味、これが俺の天職なんだなと思い、このスタイルを大切にすることにした。
皆が待っていてくれる、心の底から嬉しいと思った。年齢もあり、若い時のように飛び回れないが、でも命の限りいろいろな人たちに会いたい。
今日から8月
空襲の日は 1945年8月1日22;30-23:58
爆撃機の数 125機(テニアン島第313航空団)
投下爆弾量 924.3トン(各種焼夷弾163,456発)
罹災時の人口 4,508人
死者数 1,476人
罹災戸数 11,986戸
毎年8月2,3日は長岡祭で、2万発の花火が上がると言う。鎮魂の花火。長岡に幸あれ !
空襲当日、学徒動員で長岡にいた3番目の姉は宿舎だった寺の本尊を背負い、あの猛火の中を逃げ回ったと言う。
夜空を焦がす空襲による長岡炎上は南鯖石からも見え、当時村長をしていた父は非常線を突破し長岡に入り、焼け焦げた死体の顔を一人ひとり確認しわが子を探し回ったと言う。 混乱の中、二人は巡り会うこともなく、父は絶望に打ちひしがれて家に戻ったら、姉は一足先に戻ってきていたらしい。家中で抱き合って喜んだであろう、そんな光景を思い浮かべる。
毎週土曜日になると娘が娘を連れてやってくる。
子供と顔を合わせると、俺のベッドが遊び場になってしまう。逆さ吊りにされたり、布団の簀巻きにされたり、空中落下を楽しみ、もう直ぐ1歳になる子供のエネルギーに翻弄される。
何の縁か、
憶良らは今は罷らむ子泣くらむ其も彼の母も吾を待つらむそ
を思い出した。俺はこの歌が一番好きだ。
万葉集の山上憶良は70歳前後、妻と子供を思う情愛の深さは1250年の時を超えて”生”で伝わってくる。
もう一つ好きな歌 子等を思ふ歌一首
瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ
いづくより 来りしものぞ 眼交に もとなかかりて
安眠し寝なさぬ
反歌
銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも
子供を安心して生め、子育ても医療体制も、教育も、老後の介護も安心して世話になれるような地域づくりが欲しい。
この子達の未来に幸多いことを祈る。
広島、長崎の原爆の日がちかずいた近づいた。核爆弾が脅しの材料になる意味が理解できないが、経済不況の激流が大陸からの難民が日本を襲う時、「日本軍」はどう処置するのだろう。国を守る決断とは、そこで銃の引き金を引くこと、なのだが。この先の確かな未来の姿が・・・まだ思い浮かばない。
九州自動車道の事故
佐賀バルーンフェスタの井上義裕さん、水子さん夫婦が九州自動車道をワゴン車で走行中、土砂に飲まれて死亡した、というニュースに驚かされている。26日の事故だったという。気球の仲間で花火を見ようとしていたその直前らしい。御冥福を祈る。
1980年、佐賀バルーンフェスタの最初の大会には俺も参加している。もう30年近い年月が流れている。広島大学の有頂天グループ、角田君たちが小千谷の最初の風船一揆に来てくれたのが縁の始まりだったと記憶している。
バーナーのトラブルで飛べなかった彼が、その口惜しさをぶつけたような大会が始まり、有明の海を見ながら2時間半も飛んだ記憶が今も鮮明に残っている。金子修一君の新婚旅行を兼ねた大会出席でもあり、嫁さんには迷惑な旅だったのだろうと思う。まだ、大らかな時代だった。
柏崎に縁のある水町君や多くの友人に囲まれた素晴らしい大会であり、やがて世界大会に繋がる予感がしていた。
コンピュータの会社を始めて、45歳という遅い出発でもあり、わき目も振らず? 全力で21年を走り続けたように思う。悔いはないが、気球の仲間たちとの、あの炸裂するような時間は少な過ぎた。石塚の酒乱性人生論は、人生は美味い酒を飲むためにこそある、という理論は間違いなく一世を風靡していた。美味い酒を買える経済環境を用意すること、時間を忘れて酒を飲める仲間を大切にすること、そして、朝まで語り合えるネタ、本を読んだり体験したりした楽しい話題を豊富に持ってること。それが人生の重さであり愉快さであり、それこそが人生だとする酒飲みのグダっぽい話ではあったガ・・・。