明日から戦闘開始

2010.01.03 風の戯言


 昨夜は娘の嫁ぎ先家族と娘の娘を囲み夕食。
 些か飲み過ぎて今日も午前中ダウン !

 午後から、明日から始る新春に備えて心の準備運動。
 ナンテ言ったって、机の前で痴呆症・・・まぁいいか!

 無気力のまま、週刊新潮の最終ページを飾るコラム「変幻自在」の高山正之の著書「アメリカはどれほどひどい国か」と「日本はどれほどいい国か」に浸る。幅広すぎる知識と辛口の鋭さは老朽化した頭の中を掻き毟る。
 元産経新聞記者で、出版元がPHPというのも面白い。
 経済社会だから新聞社もテレビ局も、企業として営利活動の継続性を法的前提とするが、マスコミがビジネスとしての本音に振り回されすぎるのも、根性がなさ過ぎる感がある。

 「和」とは真実を知り尽くし、飲み込んだうえで生きるしたたかさを大切にした「大人」の実践行動なのだろう。
 
 夜更けて、雪が小降りになってきた。
 明日から活動開始。

元日

2010.01.01 風の戯言


 元日は断続的な雪に暮れている。
 風が強く、南鯖石の実家に新年の挨拶に言った時、久し振りに「森近山」が鳴っている音を聞いた。子供の頃何日も続く、家に吹き込む吹雪と山の咆哮が怖かった。電灯も少なく、暗闇の中で寡黙に耐えるだけの時間だったように覚えている。
 元日は集落の新年会と実家と妻の実家への新年の挨拶。ナントカ此処までやってこれたのは石塚家本家の支援によるものが多い。

 夕方からはテレビに噛付いている。
 「ウィーンフィル、ニューイヤーコンサート2010」
 ジョルジュ・プレートル指揮により湧き出てくるワルツ、ボルカは、同時中継の臨場感もあり、今までにない感動の波が押寄せてくる。
 痴呆症のおっさんが目を真っ赤にして音楽を聞いている・・・冷静に見ればそんな光景なのだろうが・・・感動を伝えられないのが口惜しいね。

 日本と朝鮮半島2000年。このNHKのアンコール番組も良い。

 久し振りに訪れた「自由の時間」を楽しんでいる。
 

平成22年 初詣

2010.01.01 風の戯言


 紅白が終わって、例年通り2年参りに出かけた。集落の上加納神社と清瀧寺と周光院。清瀧寺は4代目までの祖先の菩提寺、以降15代までは安住寺、自分は15代の3男坊だからと近所の周光院を自分の寺に決めている。

 墓に閉じ込められて自由を亡くすのは我慢できないので、それは作る気がしない。ただ、自分の命が尽きた時、家族だけで密葬し、後は都合のよい金曜日の夕方5時から8時くらいまでベルナールを会場にして自由な時間に来て貰って「さよならパーティ」をやれば、皆が楽しんでくれるものと思っている。楽しそうにカラオケまでやられると、生き返ってしまいそうだが・・・。

 現代の葬式が型に嵌りすぎ、面白さがないのが不満なのだが・・・皆が集まってくれて、ワインでも飲みながら俺の悪口を言い合っている・・・なんてのが理想なんだ。

 新年早々変な話だけれど、死は誰にも訪れるものなので、それほど忌み嫌うほどのものではないだろう、と思っている。「お疲れ様」って、そんなもんなんだろう。

 何はともあれ、新しい年が始った。
 楽しく生きる、大切なのはそれだけなのだろう、と思って今年も完全燃焼したい。68歳になろうとしているのに何を血迷っているかと叱られそうだが・・・南無阿弥陀仏。

荒海を見に行く

2009.12.31 風の戯言


 窓の外は雪が降り続いて、雪景色が綺麗だ。
 頭がボワーとしてビクリとも動かなくなったまま窓の外を見ながら、今日1年の終わりを迎えている。これもまた至福の時か。
 
 昼を過ぎて、家の掃除の邪魔にされ、カメラ担いで夢遊病者のように車を走らせている内に、急に海が見たくなった。
 中央海岸には誰も居なかった。
 立っていられないほどの雪交じりの強風、吹雪の中で荒海を見続けていると、不思議な力が湧いてくる。
 束の間の大自然。
 たまに荒海を見に行くのも良いもんだ。
 

朝霧の中で

2009.12.26 風の戯言


 諸々有って、4月に就任して貰った社長の辞任届けを受理し、また元の体制で再スタートをすることになった。来年は新・5ケ年計画の2年目。激動期の経営計画を議論している最中ではあるけれど、前に進むことしかない自分達にとって決意を新たにするいい機会にしたいと思っている。

 24日、クリスマス・イヴに東京に営業に出かけ夜は柏崎に戻ってイッパイ。25日は悪友達とイタリアン・レストランで賑やかにイッパイ。キリスト生誕を祝う恋人達の雰囲気をぶち壊してしまったようで、何とも楽しい会ではあった。いい加減にしろ ! と言われてしまいそうだが・・・。

 写真は25日、雪景色を包んでの朝霧・・・靄(もや)と言うのかな・・・デジカメでは表現できない光景だった。
 片田舎に住んでいると、時々神と隣り合わせに生きているような風景に溶け込んでしまうことがある。