鯖石

2006.01.19 風の宿

                                            柏崎市加納 石塚 修

 眠れぬままに早暁の鯖石川の堤防を散策しているとまだ遊び足らない妖精たちが賑やかに塒に帰っていくのに出会う。
 西半分の空には未だ星が輝き、上流の方から川のせせらぎが頬を撫でる風に乗って伝わってくる。八国の山頂は霧に覆われ、黒姫は雲に浮かんでいる。やがて東の空を染めて今日が始まり、逃げ遅れた山霧が山麓をゆっくりと下って行く。何という美しさだろう。

 夕方は金色の雲と微かな音を牽きながら旅客機が西に向かっていく。夜は星たちが瞬き、時には流れ星に出逢うことも出来る。そう言えば最近は人工衛星を見てないな。遥かな宇宙と人間の営み。遥かな時間の流れと通り過ぎてゆく風達。鯖石の地はいつも美しく、いつも温かい。

 庭の椅子に凭れてボーとしてそんな風景を眺めているのが俺には何よりも好きな時間なのだが・・至福の時は痴呆症と紙一重。

 我が家には少しばかりの芝生の庭と小さな農園がある。黒姫以北、東は八国が峰境、言えば佐橋の庄、それが俺の精神的領土。
 その広大な領地の中の三十五坪ほどの農園にトマトやキュウリ、採り損ねた巨大なナスや牛の角みたいなオクラ、イチジクや柿などが実り、それが争いのもとなんだが、畑で取れる収穫物を巡って俺とカラスの熱い戦いが続いている。悪戯にロケット花火を用意していたが、どういう訳かそんなときには奴等は来ない。テロに対する危機管理はスゴイのかも知れない。久し振りの休日、芝の手入れをしていると隣りの樅の梢でまたあのバカガラスが喚いていた。

「うるせえーな、間抜けガラス! あっちへ行け」
「珍しいじゃないか、芝の手入れなんかして、カァチャンはどうしたんだ」    
「喧しいっ!また俺のイチヂクを盗っただろう」
「お前んのか、いやさ、お前が作ったんか」
「当たり前だろう、俺が作ったんだ。俺の畑でだ」
「お前は木を植えただけ。作ったのはお天道様と大地。お前じゃない、分かるか?」
「うーん、そう言うことか」
「そうだ。トマトもだ。それともうひとつ、土地はお前のものじゃない」
「馬鹿言うんじゃない、土地は俺の名前で登記してある、俺のもんだ」
「それは税金取るシステム。大地はみんなのもの、分かるかな?」
「バカ・チンドン、お前のかぁちゃんデベソだ。ここは日本国だぞ、文明の誇り高い・・」
「カラスに臍があってたまるかよ。土地は虫や動物や鳥たちみんなのもん。境なんて、人間だけだ」
「うーん・・・」
「第一お前たち人間も動物の一種にしか過ぎないだろが。判ったらカァーと鳴いてみろ」
「カァー・・・」
「よく出来た。やればできるじゃねぇか」
「うっうっ・・・」
「カラスはな、頭がいいんだ。脳の体積比率から言えば俺らがトップ。人間なんか予選落ち」
「・・・・・・」
「それとザイゴモンよ、街の連中には気を付けろ」
「意地が悪いって、そう言いてぇんだろう」
「そんなこと言ってない。ただ、本当の自然を忘れている。危なっかしいんだ」
「ふぅーん」
「お前の相手してると頭がおかしくなる。俺は帰る。イチジク取るな、アバヨ」

 好きなことだけを言い残してカラスは行ってしまった。田舎暮らしは不自由だけれど、不思議な充実感がある。そうだ、今年は柿が豊作だから鳥たちに残しておいてやろう。唐辛子を注射しておいて、だ。カラスが赤い顔で「ペッ、ペッ」なんて、アハハ・・。

 今日もいい天気。

「パソコン村」のころ

2006.01.19 風の宿

 新年おめでとうございます。

 今年は西暦2001年と言う新千年紀の始まりなんですね。よく考えると凄い新年を祝っているのだなと思います。 さて、21世紀はどんな展開を見せるのか、未来を考えると何時も不安になるけれど、過去を振り返ると今ほど幸せな時代は無いように思います。
 人類の歴史に進歩と言う概念があるとすれば、私は個人が自分の可能性を追いかけられる自由を手にしたことだと思うのですが・・・。

 21世紀は「IT革命」の時代だと言われます。人間は農耕を発明し飢えから逃れ、産業革命を経て欲しいモノを手にすることが出来た。機械文明は人間より機械を信頼し、生産性を上げる為に効率よく「人」を排除し、効率的に相手を抹消する為に発達してきました。
 コンピューターはその合理主義の帰結の産物ではあるけれど、人類の知恵の素晴らしさはそれをコミュニケーションの道具として使い出したことだろうと思います。
 
 柏崎でインターネット・プロバイダーを始めたのは5年前。当時NEC系の接続ポイントとしては新潟県内でも初めてでした。通信速度は64Kbpsで、現在では一般家庭で使われているものです。たった5年前でしかないのです。今は光ケーブルが何本も入っていますが・・・。
 多くの人達のいろんな思いが通信回線を行ったり来たりしている。それを考えると嬉しくなって、やはりこれは自分の天職だなと、傍の迷惑も顧みずに自分でそう思っています.
 
 最近になって、この業界の人達と文明と文化、都市空間と田園、ビルゲーツと良寛等について話すことが多くなりました。ITの時代に人間の幸福が何処にあるか。アメリカよりも北欧にその問いの答えがあるのかも知れない、そんな人も増えてきました。
 全ての文明、文化はその絶頂期に次の時代の予感を孕んでいます。コンピューターが全ての人を幸福にするわけではないけれど、しかし、その道具を使って人間はもっとハッピーに成れるのかもしれない。

 今の私の夢はコンピューターを使って動物や植物と話をすること。古い大きな樹から昔話が聞かれるかもしれない。野生の動物から人間の知らない世界の面白さを教えてもらえるかもしれない。
 その技術が進めばいろいろな機能障害の有る人達も社会参加できるだろう。何よりも、コミュニケーションが足りないばかりに小さな事で争っていることもなくなるだろう。
 ただ一度の人生をもっと素直に生きられるかも知れない。そんな夢が60歳近くなった変な男を熱くしています。

藍沢南城 三余堂

2006.01.18 風の宿

 
                                     鯖石郷土史クラブ 会員 石塚 修

 平成6年11月6日、「藍沢南城を語る会」が市内中加納光賢寺で開催された。没後130年、遅すぎた嫌いはあった。
 しかし、内山知也先生が「南城 詩と人生」、目崎徳衛先生が「南城三余集私抄」を相次いで刊行されたのはやはり何かの奇縁なのかも知れない。その縁に繰られて「鯖石郷土史クラブ」(長谷川文夫先生主宰)は藍沢家墓地、三余堂跡、坂の登り口や南条集落の入り口に木碑を建てた。
 午前中は現地を訪れ、午後の「語る会」は盛会であった。地域の教育者を偲ぶ会は温かい雰囲気に包まれていた。近所の人、南城の血筋に連なる縁者、研究会の方など約100人。講師は内山先生と目崎先生。本堂のご本尊に見守られて、お二方の講演に熱が入った。

 「先生浮名を求めず、教育を以って任となす。我ら幸せなり」。
 700名を超える門弟を育て、やがて「地の塩」となって郷土を支える人材が輩出していった。その門人達の先生評だ。

 近づいている幕末の激動に振り回されることなく、冬の寮で炬燵を囲みながら子供達と語らう先生の背中が見えるようだ。「人はどう生きるべきか」。三余詩集の巻頭を飾る漢詩「南条村」は私の大切な宝である。

 南城の学統から「大漢和辞典」の諸橋轍次が生まれてくる。私たちはもっと藍沢南城を知っていい、と思う。

風船一揆

2006.01.18 風の戯言

                                          風派同盟 祭酒 石塚 修
 
 「越後風船共和国」は「Balloon Republic」の和名である。 
 酒と夢の混濁の中から生まれた新潟県内の熱気球クラブの集まりで結成30年の歴史を持つ、らしい。年に2度ほどお祭りをしている。
 春は小千谷で豊作祈願の「風船一揆」、秋は新潟平野で収穫感謝の「風船一揆秋の陣」。
 酒と米とカニを祭壇に供え、空を飛んで神と共に食す。山と平野と海と、越後は限りなく豊かであり、友の心は温かい。

 一昨年10月23日、その大地が揺れた。中越地震である。引き裂かれ、傷ついた大地と天変地異に慄く人々の心を鎮める為に、全国の熱気球の仲間が企画し、集まってくれた。
 「風船一揆復興の陣」。  
 祈りを込めて雪国小千谷の空を舞い、直会(なおらい=神事の後のパーティ)は夜遅くまで続き、些か調子の外れた「春よ来い」の合唱が寝静まった街の通りをリフレインしていた。
 
 今年また、雪の小千谷で風船一揆が開催される。遠くから仲間が集まってくる。

 天と地と風と、一杯の酒を酌み交わす。まるでモンゴルの祭りのようだ。

唯コミュニケーション論 要約

2006.01.17 風の戯言

                                            著者 F・ジョーダン
                                            翻訳 石 塚   修

  汝ら仲間外れにされた人間は幸いである。何となれば心の温かさを知るにより。
                                          -聖オサム伝 序章より-

 翻訳者まえがき

 古来、世界の本体を精神に求めたプラトン以来の「唯心論」、物質の根源性を主張するマルクス・ヘーゲルの「唯物論」が哲学の基調になっていた。しかし新しい千年紀を迎え、人類が産業革命を経て初めて到達した「幸福の世紀」の価値観を説明し得る哲学はF・ジョーダンの「唯コミュニケーション論」を於いて他に見あたらない。彼は宇宙系帰化人らしいのだが、本人の記憶が曖昧なので真実の生星は謎のままだ。何処の馬の骨であろうと、我々にとって知ったこっちゃない。
 我々の視野が狭すぎて、原著は一般の人間にとっては一見理解不可能な言葉の羅列でしかないが、「あとがき」で彼が言っているように執筆時酷い酩酊状態で呂律が回らなかったせいであり、あの朦朧としたハイな気分になってみれば解る奴は解るというのは正しい。バカな話だが…世の中そんなモンだ。
 殆ど意味不明な絶叫のような彼の文章を私なりに翻訳してみた。山本七平氏の苦労を再体験するようで何やら楽しそうな予感があった。何しろ翻訳者であり解説者である私には何の責任もないのだから…

第1章 要約すれば

 宇宙人の中で地球上の人間ほど不可解な行動する生物は他に類をみない。私は長い間彼らを観察し続けることにより、殆ど意味不明な行動原理が少しづつ理解できるようになった。人類が誕生し、やがて文化的な生活を始めた数千年前から現在までの、気の遠くなるようなこの間の彼らの行動を説明できるものは唯心論でも唯物論でもない。甚だ疑問なのだが人間の「進歩」と言う概念は唯物史観で説明できるほど単純ではないし、全ての生物は遺伝子の乗り物でしかないとするドーキング博士の遺伝子論や竹田久美子の面白解説は単にスケベ話でしかない。断っておくが「スケベ」とは遺伝子に精神を乗っ取られた地球上の哀れな人間達の事である。成る程人間は頭に性器を埋め込んではいるが、そんな奴らの方が実は多いのだが、世界的な遺産と言われる「源氏物語」も見方に因れば「スケベ物語」なのだが、しかし人間にはそれだけでは説明しきれない行動が多すぎる。それに人間は24時間Hしてるわけじゃないし、新井白石の御母堂みたいに灰になるまで性欲があるわけじゃない。

 御存知のように私は経済学者であり企業人でもあります。みんな半端だけれど…。いわゆる経済人として人間の行動を観察したときに、特に日本人種の海外旅行時のあの喧噪を観察してみると、自分の頭の中がシッチャカメッチャカになってしまう。何故初めて訪れる土地の風景も歴史的な遺跡も見ようとはせずに土産を買いに走るのか? 乏しい財布の中から、隣近所から会社の人達にまで、自分のものは買わずに、土産物を買いまくるのは何故か? 単純に好きな(変な)ものしか買わない自分の性癖からすると卒倒するほど気色悪い。何故自分のためにお金を使わないのか?
 しかし、「土産物研究家」として脳にアルコールを叩き込んでよくよく観察してみると、日本人種の行動原理は他人とのコミュニケーションを希求してのものだと思い当たる。考えてみると、人間は自分の誕生の瞬間を知らないし、この世に生まれた意味も知らない。食べ物を口にし続けなければ活力も生命も消えてしまう危うさの中で、内面の宇宙である自分の「心」も知らぬままに人は生きている。気が付けば身近な人との距離も以外に遠く、広大な砂漠に一人残されたような寂しさに苛まれる。淋しさを癒すものは同じような、心象風景を持つ人達と一体化したコミュニケーションだけ。 それも、触れたかなと思うと直ぐに遠のいてしまう風のような存在。存在と呼ぶにも希薄すぎるその瞬間を、少しでもつなぎ止めておかなければまたあのブラックホールに吸い込まれてしまうようなあの恐怖感。全てはコミュニケーションを求めての行動として説明できるのだ。例えば何も渡さずに正月のハワイの楽しさを語ったら、多分水をぶっかけられてしまうだろう。その前に、何でか知らないが、ハワイのチョコレートでも土産にやればジョンギにでも愛想笑いを浮かべながら話を聞いてくれる。一瞬の優越感。幻の一体感。

 20世紀後半になって情報通信と交通手段が飛躍的に発達し、人は多くの人と接することが多くなった。人生に於ける単位時間あたりの接触する人員数が飛躍的に増えたと言っていい。これは特定の人に接する濃度の希薄化を意味する。家族や学校の崩壊。人は益々孤独になり、孤独に耐えられない不幸な人達がその存在の根源に迫ることなく右往左往している。人は本来孤独な存在なのだが、それに耐えられずに人とのふれあいを求め一体感を確認している。「みなさぁーーん、最高ですかぁー」

第2章 要約したら

 我々は自分たちの棲み家である地球までもが人間の心と同じように以外と傷つき易く脆いものであることを知った。世界が単一の社会に近づき、世界と地域、文明と文化、社会と個人、外的要因と内なるもの。その辺を整理して認識しないと、またまた混乱の世紀を迎えてしまう。それにしても「20世紀の映像」に残されたように、何と過酷な時代を生きてきたのだろうか。意志の疎通を欠いたばかりに、自分の意志を旨く伝えられなかったために、そして一人ひとりがそれぞれの価値観の中で僅かな時間を精一杯に生きていることを理解できずに、人は何と遠い回り道をしてしまっているのだろうか。
 一見不可解な人間の行動原理はただコミュニケーションにある。唯コミュニケーション論と命名した次第である。この人間の弱さをターゲットのして21世紀のビジネスは爆発し続ける予感がする。産業革命に次ぐ情報革命とも呼ばれているものが既にスタートしている。たまごッチ、ピッチ(PHS)、ケータイ、或いはインターネットなど情報(情=心、報=伝える)分野の進展はまだまだ続くだろう。現代に於ける人間存在の危うさと淋しさを知っているものだけが真に理解できる世界なのだ。
 しかし、本来孤高であるべき人の「ブッチホン」なんてのは、あれは何なのだ?

以下次号に続く。(刊行未定)