Collaboration
Collaboration
かつては「元請」「下請け」「孫請け」という仕事発注の上下関係を表す言葉が、一時的に「協力業者」となり、今はパートナーとか、win win の関係とか仕事の協力関係を表す言葉が変化してきている。
基本的には受注形態の変化、上下関係から水平の専門業者同士の協力関係、いわゆるコラボレーションが主体となりつつある。
この原因は高度なプロジェクトをアクションレベルまでブレークダウンすると、各レベルに多くの専門的な知識をもった人たちが必要となる。
必要とされる専門的知識は更に深くなり、溢れ出し、個人の能力の限界を超える。当然複数人による共同作業が必要となり、それは単に作業のレベルを超え作業プロセスや技術レベルについての認識が共有されねばならない。
高度な専門知識と経験を要求されるコラボレーションは、感動を共有し、共鳴する心がなければパートナー、上司、部下との良好な信頼関係が築かれない。
そしてそれはコラボレーションできる「場」が必要なのだと言う。リアルであろうとバーチャルであろうと、人が集まれば知恵が出る。オープンな関係が創造を生み出す。
ただ、知識が深まれば常識が薄れる、と言われる。目的を見失い、手段の目的化が始まる。気をつけなければならない。
本を読んだ、試験に受かっただけの知識は、子供が刃物を振り回すことと同じで危険だ。常識とは体験し、経験し身体が覚えていることで、理屈ではない現実だと思う。
リアリズムによる議論は、同じ体験をしたことがないと伝わりにくい。人は見たいものだけを見ていると言う「バカの壁」がそこにある。世の中面倒なのだが、損得計算を後回しにした「素直さ」が何よりも大切なように思う。
前兆?
最近、身体の深いところから時折不吉な微弱電流が流れる。
今まで経験したことのない不快感があり、身体のどこかで異常が発生している信号-前兆なのかも知れない。要注意だ。
年齢を重ねてくる毎に、健康には細心の注意するようになった。と言うより毎日毎日が未だ闘いの連続だからファイテングポーズを解く訳には行かないし、自分の健康、と言うより元気、闘争心を奮い立たせることが何よりも大切になっている。
戦場で死ぬのは武家?の習いなので、病気を理由に戦線離脱したくないし、無気力な決断をしたくない。
ただ、命だけを永らえる為の手当てを受けたいとは思わない。自分の中では65歳を過ぎたら治療は受けない、と規定している。
悪い癖で、自分の人生にそれほどの価値を見つけられないでいる。だから修理して乗るほどの車じゃない、とも思っている。あまりいい考えとは言えない。
唐突だけれど、人間には命より大切なものがあるように思えてならない。動物の一種である限り、命はやがて尽きる。
遅かれ早かれ、人間は死ぬものである限り、人は命より大切なものを持つべきなのだろう、と思っている。
自分の身体に耳を澄まし、養生を重ね、ファイティングポーズを崩さないように生きたい。それと、不健康なことを楽しむために、健康には気をつけよう。そういうことかな。
知足
「知足は第一の富なり」
お釈迦様の言葉に一番近いと言われる経典「マンダパタ(法句経)」にこの言葉がある、と言う。
確かに「足(たる)を知」らなければ常に飢餓感に苛まれ、心が満ちることはない。
現代資本主義経済はその「飢餓感」に立脚した社会でもある。実際「生活を豊かにする」新商品・サービスの誘惑に抵抗するには努力が要る。「お金が無い!」と叫びながら、目はテレビCMに釘付けになり、知らず欲しい衝動に突き動かされている。
手の届かない価格の時には「諦める」ことも出来た。しかし今はどうだ、「えっ!」と思うような値段で目の前にある。
一点豪華主義から欲望拡散時代になり、今も「足を知る」こととはほど遠い所で喘いでいる。飢餓地獄とはこのことなのか。
足を知るは第一の富なり、と言う。
莫煩悩、欲を捨てろと言う。
確かにそうなのかも知れない。
だが「欲を捨てた」人生とはどんなものなのだろう。
よく分からない。
バリの浜辺で
バリに旅してきた。
友人がバリに医者を開業したのを祝い、ついでに久方ぶりに浜辺で眠りたかった。疲れていたのかもしれない。
彼とは熱気球の製作を手伝った縁で、中国河北省石家荘でのフライトや、アキノ大統領就任一周年記念式典のお祝いの係留などに私を連れて行ってくれた。彼は私の人生に大切な彩を与えてくれている。
バリは3回目になる。ウブドゥやバリダンスに特別な想いがあるわけではない。ただ、バリの浜辺で波の音を聞きながら眠るのが堪らなく好きなだけだ。最高に贅沢な話なのだが、HISの格安旅行を見つけると驚くほど安く行ける。
英語も、ましてインドネシア語なんて出来るわけはない。旅行中は日本語だけで通した。一人旅なのでどこまで通じているのか不安になるが、タクシーも食事も買い物も不自由することがなかった。
どこの国も白髪頭の老人には親切なようだ。ただ痴呆症を気取っていると支払いのときに「計算違い」の請求が出たりする。電卓叩きながら、何故か大阪弁でまくし立てると、大抵は「計算違い」は解決する。面白いね。
自爆テロの影響から町はまだ癒えていないけれど、運命をそのまま受け入れてしまう土地柄か、ここかしこの神々に供物を配る女性達の姿が美しかった。
おぢや風船一揆 30年・・・
平成18年2月25日朝
小千谷市西中の雪原にダイヤモンドダストが煌めいていた。
山本山や周囲の山裾は朝靄に包まれ、空は青く雪山は朝日に輝き、今年30回目を迎える「おぢや風船一揆」は神様の贈り物としか言いようのない、夢のような快晴の中でスタートした。
全国から集まってくれた39機の気球、ドラエモンやワンちやんの形をした熱気球、それらがゆったりと雪原を離れ大空に舞ってゆく。無風に近い雪原を空一杯に熱気球が広がってゆく。
子供のように、30年同じ夢を見て、そして今年はその30年の良い所だけを繋ぎ合したような感動的な一日だった。
私は既に老いて、祭りの何の手伝いも出来ない。それは悲しいことだけれど、遠くから来てくれた仲間達と無駄口を叩き合い、雪原に吼えるバーナーの音を残しながら翔びたってゆく一つ一つの彼らを見送ってゆくのはとても楽しく幸せなことなのだ。
「嫁よこせ」なんて大書したムシロ旗をおっ立てて、「風船一揆」を始めた30年前が妙に懐かしい。 いい仲間と酒、人生にこれに勝るものはないのかも知れない。