ドナルド・キーン 「日本人の戦争」
ドナルド・キーンは太平洋戦争で情報士官として、戦場に散った兵士達の手帳に記された日記を読み解いている。
この本は「作家達の日記を読む」と副題にあるように、戦前、線虫、戦後の膨大な日記を読み解き、日本人の戦争感を抉り出している。
高名な作家達の戦中から戦後への変節を知り、何やら現代にも通じる「言論」の無節操に愕然とする。
「飯が食えないから」とキーンは同情もしているが、余りにも無残な「転向」に辟易としているようだ。
信頼とは何か ?
「筋を通すこと」、変わらぬ哲学を持って生きること、なのだろうが、豊かな時代を生きた人間がホザク言葉ではないのだろう。
しかし、「調子のいい奴」にはむかっ腹がたつ。
ボランティア休暇
ボランティア休暇、要は鯖石弁で「ノメシ休み」のことなんだが、目の前の交通公園の草刈り。
3日掛かりで漸く一つの島の形が出来た。
これから「仕上げ」になるが、さて何時になったら気が向くか、全て「インシュアラー」だ。
草刈りの合間に車を走らせ、軽井川から安田駅裏の明神集落に抜け、さらに農耕車優先の田圃道に乗り込んだら行き止まりそうになってしまった。
幸い、と言うかそこに小さな小屋があり、外のテーブルでお茶を飲んでいる人達がいた。
刈り入れの終わった田圃が小さな沢一杯に拡がり、その向こうに雑木林の小山が続く。
風の音もなく、静かな、古い記憶の中の風景。
なんと贅沢な人達がいるのだろう。
お茶をご馳走になりながら、そこが陶器を焼く窯であること、赤松の割木を1週間炊き続けること、そして安田に店があることを聴きながら、ご主人の名前を聞き漏らしていた。
今日小雨の中を探し求めた。
恒炎窯、片桐さんという。
ウィンドウにいい茶碗が見えた。
テロリストと言語
毎日新聞にそんな記事が載っていて切り取っていたのだが、何処かに行ってしまった。
要はこうだ。
自爆テロリストは自分の意思でテロを起こす。
何故か?
人は言葉により自分の信念を築く。
遺伝子によるものではない。
その人の家庭、その時代の社会的環境、友人、教師。
社会的熱狂といえば「真珠湾攻撃」だろう。
その前後、日本は戦略的、科学的思考を投げ捨て「神国日本」に爆走してしまった。戦後は一部軍部に責任を押しつけ、或いはまた一億総懺悔と歴史を直視する姿勢が欠け、またも同じ道を走ろうとしているようだ。
ドナルド・キーンの「日本人の戦争」(作家の日記を読む)を拾い読みしてみると、高名な作家達まで血迷っている。70年を過ぎた現代だからそう思うのかも知れない。
神風特攻隊、ナンテのもあったな。
彼等は敵艦に突っ込んで自爆し、そして「神」になった。
要は、言葉が意識を創り、人を創る、ということ。
話は流転する。
遠い昔、よく走った山間の道を、始まったばかりの紅葉に魅せられて車を駆っているうちに道に迷ってしまった。迷うのがまた魅力なのだが、刈り入れが済んでホットした秋祭りの後にはもう冬支度が始まっている。
ポツンポツンと残る古びた家の前に、老婆が蹲っている。
昔は、子供達の声が山に木霊していたのだろうに・・・
実家の前庭で、莚(むしろ)に座りで豆柄を叩いていた祖母を思い出す。おばば、どうしてるかなぁ。
大泉寺に寄ったら、住職の小林さんが落ち葉掻きをしていた。先日の台風で杉の葉が落ち、境内を埋め尽くしている。
仁王門の脇から狼煙台まで山中が荒れていて、後から来た人に聞いたらイノシシの仕業で、捕獲の罠を仕掛けるのだという。穫っても食えないのだそうだ。美味い筈なんだかなぁ。
秋は楽し
俺は本来無宗教であり、人生に意味などないと信じている。死んだら「無」になるだけ。だから般若心経に通じるニヒリズムが好きなんだが、やはり「送る人」にとって葬式は大切なんかも知れない。
訳の判らない「有り難いお経」も、意味が判らないからいいのかも知れない、と思った。
後退したのか、前進したのか判らない。
何時何が起きても不思議はない人生。
今日も対向車線に飛び込んできた軽自動車をスレスレで躱した瞬間に目前に電柱が迫り、これも神業か誰かの助けか、ギリギリ難を逃れた。
歳を取っても、俺の運転技術は神業に近い。
バックミラーにその車が止まっていたのが見えた。
夕陽に照らされた山辺の道をトロトロと走り、行く秋を楽しんできた。