有坂君結婚式
10月3連休の中日11日は当社NWシステム課有坂君の結婚式に招かれ楽しい一日を過した。
お祝客は実家別俣や嫁さんの親族は善根など、よく見れば身近な人ばかりで、花嫁花婿そっちのけで昔談義に花が咲いてしまった。花嫁の友人達は施設で働く人たちが多いようで温かさが会場に充満していた。いいもんだ。
祝言の余韻に浸りながら、香を焚き静かな時間を迎える。いつの間にか秋の農作業も終わり、脱穀や精米の音も粉塵も定まり、虫の声すら聞こえない[秋]になっていた。
静けさに身を沈め、忘れていたものが舞い戻ったようで、豊かな気持ちで香と遊ぶことが出来る。いいもんだ。
現代のビジネスの世界はスピードと利益が主体の病であるけれど、それが主舞台で演じられるのがルールだが、舞台を下りたら[日本の時間]がまだあるのだよ、それを大切にしたい。週刊新潮に連載されている「橘花抄」葉室麟の文章がいい。ストレートでなく、回りくどいけれど二重にして受け取り2面から理解をする。濃密な人間社会の傷をつけない生き方、ナンテもう忘れ去られていた。自分だけが・・・か?
気がついて書棚を見たら目も通して無い経済書がずらりと並んでいる。読書の分野を変えねばならないようだ。
10月の夕焼け
寝静まった夜にBSのジャズライブを聞いていると、アルコールが幸福感を増殖する。最近は酒量も増してきたが神に近い高揚した雰囲気に浸れるのは良い。
夕刻、犬の散歩なのか自分の健康管理の散歩なのか、目的は不明確なのだが、まぁ明確な目的なんてどうでも良いが、稲刈りの終わった鯖石川の堤防を歩くのは楽しい。
黒姫が夕焼けに浮かび、今日も静かに一日が過ぎてよかったね、なんて声をかけてもらっているような気分になる。
町場は落ち着かず、すっかり元気を亡くしているが農村部には活気まで行かないが、一種の落ち着きがある。人生なんて、そんなにバタバタしなさんな、世の中なるようにしかならんのだテ、と言っているような・・・。
「日はまた上る」
朝になれば、眠りの足りた頭は何時もの闘争本能に満たされて精気に溢れた男に生まれ変わっている。人生バンザイ!、人生バカヤロウ !
何の気まぐれ?
神だか仏だかデクノボウだか知らないが、何の気まぐれで自分をこの世に生かしておくのか、良く判らない。
手足を見れば、両手両足に火傷の痕がまだ残る。誰も教えてくれないが、多分鍋のかかった囲炉裏に突進して大火傷をしてしまつたのだろう。額の真ん中にキズがある。子供の頃本気で喧嘩していて投げられた石が眉間を砕いた傷だ。左の眉に残る傷痕は9歳の大晦日、2階の手摺から落下し玄関の敷石の角で切った時の傷、左手首は鎌でひまわりを切ったときに勢い余って自分の手まで切り落とそうとした傷。
思い出したくないが、左足首は鋸が折れて切った傷、膝には自転車のブレーキが突き刺さった痕。その足の裏は風呂の棚に飛びついたら落ちて割れたビンのガラスに足が落ちてきた・・・・もういいや・・・でも土木現場で死に損なったのは3度、車で2度・・・これだけ死の直前まで行ってまだ生きているのは、神か仏か何かが自分に何かをやらせようとしているとしか思えない。
もう疲れてきた。俺は何をせんばならんのだ?
故玉井先生お参り
春先に亡くなられた元信州大学教授玉井袈裟男先生の松本のお宅に伺って来た。ジャカルタの山田医師、信州テレビの三浦部長など、他に当時の探検部の学生3人ほどでお参りさせて頂いた。
俺は信州大学の卒業生では勿論無いが、自分勝手に「師匠」にした先生で、多くのことを学んだ。
知遇を得たのは昭和60年(1985)信州大学探検部の熱気球の中国遠征の時。玉井先生が団長、小松先生が副団長で学生が15名くらい、そして参謀役として石塚と近藤。中国側にとってみれば怪しげな社会人が二人混じったので随分と考え込んだらしい。
石家荘の解放軍飛行場で中国初フライトをした時、信州テレビの三浦君がクルーにテレビカメラを持たせたのが「約束を破った」行為になり、解放軍司令部での釈明に出頭させられた。団長はこんな修羅場は経験無く「石塚君、どうしよう?」状態。動機はどうあれ「約束違反は約束違反」。ここは速やかに謝れとアドバイス。重苦しい司令官室での謝罪は冷や汗が出たが、中日友好協会の未来も考え厳重注意で釈放。
今考えると、妙に懐かしく、また夢の中の出来事のようで現実感が無い。でもその難局を乗り切ったことで先生との距離はぐっと縮まり、俺は勝手に「師匠]にしてしまった。
考えてみたら、訪中後もう25年が過ぎていたのだ。
その後主宰する「風土舎」にお伺いしたり、高柳の町興しセミナーに参加したり、伊那の岩本さんのところで偶然一緒になったり、先生の幅広い人脈と活動に驚き、憧れていた。
写真は松本城にて、山田医師と