タイトル無し

2007年12月23日 風の戯言


 猫たちのそこが棲み処か年の暮れ    草風

 今日は冬至。雪も無く雲間に青空も見え年の暮れとは思えない時間が過ぎていく。枯れ草の中に雀達が声を潜めて集まり、庭は残り柿が静かな時を過している。

無題

2007年12月22日 風の戯言

 遅き日のつもりて遠きむかしかな      蕪村

 雷が自分のところにだけは落ちないように「くわばら くわばら」と呪文を唱えるのは何故? と不思議に思っていたが陳舜臣の「中国の食物史」を読んでいたら「桑原」は菅原道真の領地なので自分の領地には雷を落さないだろうということらしい。学者ってつまらぬことを知っているもんだ。

 冒頭の句
 遅き日は春の季語らしい。そんなことはともかく、暮れの近づいた夜はいろいろなことが思い浮かぶ。思い出しちゃいけないことまで・・・蕪村60歳の句

大晦日の復興花火の募金状況

2007年12月19日 風の戯言

 大晦日も近づき、今日は番神堂で住職、檀家、世話人、市役所、商工会議所、NHK、警察等が集まって除夜の鐘と復興花火の経過摺り合せをやった。
 30年ぶりのNHKの放映、花火に追悼のローソクなど祭事が多く、参拝客で大混雑が予想され、警備に重点を置いて警察官を配置することになった。

 募金は予想を超えて集まり、もう直ぐ予定額を超えそうになっている。後半になって凄い勢いで集まっている。みんなは何を待っていたのだろう。兎に角凄いことになっている。

マンガ文学

2007年12月18日 風の戯言

 行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。淀みに浮ぶ泡沫は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまる事なし。世の中にある人と住家と、またかくの如し・・・。

 先日お昼を食べながらコミック誌を読んでいたら方丈記の冒頭の文が出てきた。マンガと侮ること無かれ、最近のマンガ雑誌は下手な小説より数段と奥が深い、と思っている。妙に真剣だし、余韻が残る作品が多い。マンガ文学、だな。

 なんて書きながら、時折深い悔悟の中に置き去りにされることがある。悔いてもどうにもならない過去に沈むものと、考えても現実に作用できない未来を思い悩むものは愚か者であると言う。だから一瞬の「現在」が 大切なのだ、とも。
 判っているさ。だから目の前の敵に左の頬を打たれたら、相手を殺してしまおうと思う自分の凶暴な心を封印する術も身に付けた。自分でも驚くほど温和なジジイを演じている。最近はこれが本当の自分じゃないかとも思う。

 あれこれ悩んでいる内に年末が近くなった。一日雪が遅ければ一日の儲け。春はまたやってくる。
 来年は会社の20周年パーティをやろう。

震災復興計画策定委員会

2007年12月16日 風の戯言


 M6.8 中越沖地震より5ケ月。
 柏崎市震災復興計画策定委員会委員を務めることになった。四次総市民会議副会長との関係での任命らしい。
 多分筋書きが整っているところでの「追認」作業になるのだろうが、気になることが2,3ある。
 一つは復興計画の理念或いは旗印だ。地震により前提条件がチャラになったので、単なる四次総の前期計画という位置づけではなくなっている。明確な復興計画の理念が必要なのだと思う。
 「帰ろう、山古志へ!」がなぜ感動的なのか。明確な達成可能な目標が提示されているからだと思う。苦難に耐え、到達すべき目標があるならば、人は頑張れるのだ、そう思う。

 もう一つ。原発の再開論議を抜きにして復興計画はありえない。地域経済を考えるならば、地震で倒壊した住宅の建替えに30年ローンを組んだ人たちの生活を考えるべきだ、と思う。
 安全を度外視しろ、という意味では、もちろん、ない。