鯖石、地名の発祥の魚形石
旧南鯖石村大字石曽根824番地の、私の生まれた実家の庭に「鯖石」の名の発祥の下といわれる「魚形石」が、六尺四方の石柱に囲まれた一角がある。
南鯖石村大字石曽根字行兼(ゆきかね)集落に住み着いた「石塚家」は藤原北家が関東に拠点を構えた藤原秀郷、佐野氏の流れにあり、館林城が織田信長四天王の滝川一益に猛烈に攻められた落城の折に越後国山中と行兼まで逃げ延びた兄弟に始る、と伝えられている。ホントかね。
四代目は深い信仰により全国の山岳仏教の地を熱心に歩いたようだ。湯殿山から1尺8寸の鯖の形をした水石を見つけ持ち帰ったという。神命を感じ庭に石の祭壇を作り、祭った、と。若い頃、兄貴と掘ってみたけど、何も出てこなかった。
大法螺は家系 ?
元南鯖石小学校のコスモス
鯖石街道を走っていたら、旧南鯖石小学校の跡地にコスモスが咲き乱れていた。優しい秋の風に揺れて、懐かしい風景に忘れていた子供の頃を思い出してしまった。
小学校の頃はいろいろあって、消えてしまった方がいいのかと本気で思うことが何回かあった。思い出したくない過去だけれど、6人の姉や兄に助けられて生きてきたように思う。5歳の子供を残して息絶えようとしている母が姉に手をあわせて「この子を頼む」と言い残して身罷ったという。
母の思い出といえば、中門寝間の奥の方で枕元に薬を山盛りにして寝ている姿だけ。会話もあったのだろうが、何も覚えていない。全て忘れてしまった。
親父は戦争中に村長をしていたので「公職追放」になり、仕事がなくなった。「農地解放」でが8百俵も積み上げられていた小作米の「米蔵」は急に寂しくなり、スカスカになった蔵に、闇で買い集めた「セメンシ袋」が山積みになっていた。ヤミで儲けていたようだ。「これからは相場」でと命をハリ、トラックを買い、製材工場を経て、戦後の荒波を鼻歌交じりに乗り切っていった。
やがて製材工場は大ブームになり、集まる人たちの人間を見る世界になった。
学校の休みの時は熊みたいな大人たちの酒盛りに加えて貰った。考えたら、まともな子に育つわけがない。。
冬には雪の中を出猟した人たちを待って、「鉄砲うち仲間」が集って縄文時代のような宴会が始る。
あるとき、「うさぎ」も「やま鳥・キジ」も皆食ってしまって「酒の肴」がなくなった。ボルテージの上がった宴会は何が始るか見当が付かない。
食うもんがなくなると、皆親方のところに集まる。「何が食えてぇ」と親父が聞いたら「なんかでっけぇものが食いてぇ」、「デッカイものって何だ?」 「この辺りじゃ ウシ だろう」って、この話は行田の爺さんに聞いた。
山賊の親玉みたいな俺の親父が「よし、解った、何処そこの家からウシ連れてこい」って。可愛そうなウシは庭の松の木に繋がれ、鉄ハンマーを脳天に振り下ろす者、短刀でウシの首を一瞬で切る者、あっという間に家中に焼肉の煙が広がった。だから、犬なんて何時いなくなるか判らないのだ。
いやはや本当の山賊時代の生活みたいでバカ楽しかった。酒は殆どが蜜造酒、何時まで続いていたか記憶はないが、みんな元気だった。