今年もまた、クロトンボ
朝、玄関にハグロトンボが見えた。
「ごめん、夕方また来てくれる ? 」
陽が西に傾いてころ、本当に彼女は遊びに来てくれた。見つめると、さっと逃げて、カメラを向けると近づくのを許してくれる。モデルのようにポーズを取ってくれたりして、暫らく鬼ごっこみたいに遊んで、目を放した隙に庭から消えていた。
見上げれば、戻ってきた青空に一匹のトンボが、あれは何でだろう? 直角に曲がりながら翔んでいる。庭の片隅を掠めて行く蝶も見えた。
早朝ドライブで山道を走りながら「蛇を見なくなったね」と妻と話していたばかり。車に轢かれた蛇やタヌキの死骸を見かけなくなった。寂しくなって、夕暮れの石川峠に車を走らせたら季節外れの鶯の鳴き声が聞こえ、何となくホッとした気持ちになれた。
そういえば、鯖石川の近くの田圃で色に灰色の混じった鷺よりも大きな鳥を見かける。余程用心深いのか、かなり遠い距離でも必ず飛び去っていく。望遠レンズが欲しくなる瞬間。
自然の中で縄文人の心に触れながら、普段は修羅を生きている。まだ本当の修羅には程遠いのだろうが、ヨシキリがざわめく堤防を、腑抜けのようになって歩くのもいいもんだ。
ランの散歩
加納の自宅の近くを流れる鯖石川は、昔から7月14日の田島集落の毘沙門様の縁日に、必ず洪水になる。学校は水浸しで当然に休み。悪童達は水嵩の増した小川に台所の笊を持ち出し小魚取りに忙しい。
大きなタモを持った大人は大物を、笊を手にした子供は小魚を、夫々の獲物を見せ合いながら「気を付けろ!」と一言残し、もう次の魚場に移動している。
田圃は全面泥水に埋まり、今年の収穫は・・・心配してもしょうがないのだろう。水に過不足なし、という。なるようにしかならない。それが自然の中で生きるということだ、と知った。
何時もより早く家に帰り、ランに謎をかけられて、散歩に出る。
この犬は吼えたり飛び掛って散歩に連れて行け、とは言わない。ただ、じっと俺の目を見つめ「ねぇ、連れて行ってくれる?」 実を言えば俺はこういうタイプに一番弱い。
「仕方がない、散歩に行ってくるか」その言葉が終わらぬ内に脱兎の如く前の公園に向かって走り出している。人間の年で言えばもう70歳を越えているはず・・・なのだが陽気なランは関係ないみたいだ。
でも、時折長い散歩をすると「予定外のコースだ、年寄りに無理させないでくれ」と座り込んでしまう。
SOSを発信し、女房が車で迎えに駆けつけるのを待っている。何とも横着な犬だが、まだ死にそうにない。もう十分に生きたから、そろそろ良いんじゃない? どうだ? ラン!
玉井袈裟男先生を偲ぶ会
信州大学名誉教授玉井袈裟男が6月11日に亡くなった。
ジャカルタの「ひまわり診療所」院長山田さんから連絡は頂いていたが、「偲ぶ会」からの案内が届いた。
信州大学冒険倶楽部のメンバーは山田君が来れる10月を考えていたようだが、7月19日の会に顔を出したくなっている。
玉井先生の魅力の虜になってしまい、勝手に弟子入りをさせて貰った。
日中友好協会長野支部が河北省石家荘で熱気球を揚げるときは先生が団長、団員は学生たち、石塚と近藤は当然怪しまれ公安にマークされ、何とも不思議な混成団だった。
まだ4人組が逮捕された直後で、緊張感が漂っていた。解放軍の飛行場を借りて熱気球を立ち上げ、初めて中国の空に熱気球をを飛ばした感動は今も忘れられない。
テレビクルーのトラブルが発生し、団長以下数名で解放軍司令部に赴き.事の次第を説明し、陳謝し、信頼を裏切った処罰は潔く受ける、と参謀役の私はそう作戦を決めた。
先生の吶々とした信州弁と、腹を決めた潔さが通じ、一時は拘留の覚悟も決めた場面もあったが、最後は笑顔で交渉が纏った。
無事開放され、先生は私に「ありがとう」といってくれた。暖かい手だった。
その後も各地のイベントで会うことも多くなり、先生の不安の多さに驚かされた。
いろいろ思い出すと、19日は何としても参加したくなる。前日は自分で仕掛けたゴルフ、翌日は社員の結婚式・・・結婚式を延ばしてもらい、松本で古い仲間達と飲み明かせてくるか・・・悩む。10月を待つことにする。
元気回復
金曜日の夜はお客様の元社長に開いて頂いた「会長就任祝い」、今日は新潟大学を退任された教授の感謝ゴルフ。素晴らしい時間の連続で、充実した24時間だった。
ゴルフはと実に数年振りのラウンドで、アルコールに浸された体が保たれるのか心配だったが、楽しさに貪欲な性格が全てに優先させてしまい、パートナーに大迷惑をかけながらも自分では最高に楽しいゴルフだった。感謝 !
週に2回のマッサージと1回のハリ治療を必要とし、生きる為には「透析」と同じような医療行為と割り切っていた心算でも、疲れ易い身体と言うのは重苦しい気分が吹っ切れない。食事の改善=粗食とハリ治療一本と水やらの回転が効き始めたのか、少しづつ体調が戻り始めた、というよりこんな元気を取り戻しつつあるのは初めてのような気もする。
元気が戻れば、人に頼まれたことは手を抜きたくないし、何事かに一生懸命になれることの楽しさを棄てるわけには行かない。本当に生きている時間は「元気な時」なのかも知れない。