貧しい大統領の言葉

今日の毎日新聞、「水説」の欄にウルグアイのホセ・ムヒカ前大統領の魅力的な言葉が載っていた。大統領就任時、資産は約18万円相当の自家用車だけだったというので有名な人。
「貧しい人とは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、幾らあっても満足しない人だ」
2012年、リオデジャネイロでで開かれた「国連地球サミット」での演説だ。演説全文が世界に流れ、多くの人が共感したという。
「よみがえる戦前日本の全景」も読むに値する本だ。
戦後70年、と第2次世界大戦だけが論じられていたが、戦前の生活、「おしん」の風景にあまり触れられていなかったようだ。その中で、夕飯は10秒、との文章に愕然とした。雑穀を混ぜた1杯の御飯にお湯を掛けて沢庵2枚で掻き込むと10秒かからないのだという。
遊び呆けていた子供の頃、「夕飯時に人に家に行くな」と家人にきつく言われていた。ある時その意味がわかった。
現代は豊かになった。
ただ、「欠食児童」はまだ多いという。
同じ新聞の「余録」の欄に
「人生には第2の機会はない。今、手のひらにあるものを握りしめて前に進むしかないのだ」
戦時下のシアトルの「あの日、パナマホテルで」初老を迎えた主人公が苦難の過去を懐古する一節だそうだ。日系移民の12万人が「敵性外国人」として内陸の収容所に移送させられたという。
パラオの海も美しいけれど、哀しい海だ。
戦いひにあまたの人の失せしとふ
島緑にして海に横たふ 陛下
アジサシ舞うパラオの海の波静か 草風
俺が 裕次郎 だったころ

チャンネルを回していたら石原裕次郎の歌が流れてきた。
裕次郎は良家のやんちゃ坊主で、少し崩れていて、高田工業高校生だった俺たちの「アニキ」のような存在だった。
映画館を出てくる時は、俺たちは皆「裕次郎」になっていた。
学生帽にアブラを塗って、少し斜めに被れば「裕次郎の舎弟」になっていた。
他校の連中と揉め事になり、金谷山で大立ち回りをやる。俺はいつも「立ち会い」、まぁ行司みたいなモンをさせられ、警察の手が回った時、皆が逃げ、俺が捕まる。警察は「またお前か、喧嘩はどうした?」「何もなかったよ」そんな会話で終わり。
後で聴いたら俺を取り調べた警官は、逃げた中間の親だった・・・、家で親爺がお前のこと褒めてたぞ・・・ナンテバカみたいな話がいろいろあった。
学校内や他校とのトラブルが発生した時、青田川に架かる橋のたもとの下宿の部屋は談合部屋になった。
お互いが言いたいことを言い尽くす頃合いを見て、手を打たせる。「いいか、今後は仲良くするんだぞ」なんて。
皆が俺の言うことを効いたのは、俺の部屋には酒があったから。ヤクザの真似をし一献一献仁義を切って回しのみし、後で橋詰めのラーメン屋からラーメン取ってやると、トラブルなんて何処かにぶっ飛び、みんな仲良しになる。
山の中の土豪みたいな、土方の親方の家で育てば、そんなになってしまうのだろう。
高田工業、高田高校、高田農業、能生水産。各校にそれぞれの猛者が居たが、皆裕次郎になりたかった仲間達だった。
雪の夜に、何か懐かしさが込み上げてきて止らまらなくなるのだ・・・。
遅ればせながら「謹賀新年」

高柳の山奥の板前が「石黒はハワイみたいだ ! 」と叫んでいた。「だって、お正月に20センチの雪しかないんだぜ ! 」
このジョークにすっかれやられてしまってハワイアンを踊りたくなった。
判るんだなー、雪が降ると「子供が屋根に飛び降りて困ってしまう」と大人が嘆く土地柄、平年だと5メーターくらいの雪になるのか・・・。
閑話休題
高速道路を走っていると、蒲原の田圃に白鳥が散らばり、鯖石川の堤防を散歩していると大型のサギのような鳥が遊んでいる。土手の草藪から雀の群れが一斉に飛び立ち、空に舞っていく。
でも、不思議なことにいつの間にかまた元のグループに戻っている。
鳥たちのGPS機能と通信機能はどうなっているのだろう。
Wi-FiにつながったLiNEを楽しんで居るように見える。
いや、果物にも笑顔があったのだ !
昆虫の世界も凄いらしい。
小さな、可愛そうな奴、と思っていたがどっこい「彼らは素晴らしい能力を持った人間とは全く違ったモノ達だったのだ。
現代の眼でファーブルの世界を再探検する必要があるようだ。
生の世界は素晴らしい。

