才能と仕事
「人間の才能は、多様だ」 と継之助はいった。
「小吏に向いている、という男もあれば、大将にしかなれぬ、という男もある」
「どちらが幸福でしょうか」
「小吏の才だな」継之助は言った。
「藩組織の片隅でこつこつと飽きもせずに小さな事務を執って行く、そういう小器量の男に生まれついたものは幸福であるという。自分の一生に疑いも持たず、冒険もせず、危険の淵に近づきもせず、ただ分を守り、妻子を愛し、それなりで生涯をすごす。
「一隅を照らすもの、これ国宝」と継之助は、いった。
叡山を開いて天台宗を創設した伝教大師の言葉である。きまじめな小器量者こそ国宝である、というのである。
司馬遼太郎 「峠」より
人間の才能は、大別すれば創る才能と処理する才能の二つに分けられるに違いない。西郷は処理的才能の巨大なものであり、その処理の原理に哲学と人格を用いた。
司馬遼太郎 「歳月」より
人生は短い。だけど走り続けさせられた人間にとってみれば、嫌になるほどの長い距離なのかも知れない。
時折、もういいかな、と思うこともある。人間の時間には限りがある。だから「人間の命なんざ、使う時に使わねば意味がない」(峠)し、命なんて棄てる時に棄てなければならないのだろう。それが命懸けの仕事かどうか、ナンテ大した意味は無い、と俺も思う。
さして意味も無いものに何故に拘る・・・単に命が惜しいだけ・・・いや、男の意地みたいなもの・・と思う。色即是空 空即是色・・・男には志、ナンテものが必要なんだろう。誰にも理解をして貰う必要はない。でなければ「志」ではない、のかも知れない。