年末花火残念会
大晦日の除夜の鐘に合わせた108発の花火が悪天候で失敗し、この企画の現場でご苦労をお掛けした3人の方を岬館に招き一献傾けた。語らざれば憂い啼きに似たり・・・で精一杯にやることだけをやった人間に言い訳も慰めもなく、静かな濃密なひと時が流れる・・・いい夜だった。そのまま『未完成」に流れ、シンデレラになりそうなので駅前までタクシーを拾いに地下道を歩き、一人ひとりを捨てて行きつけの店に行ってが閉店だからと箒で吐き出され、代行が見つけて家に送り届けてくれた。
何か嬉しい日だった。ほんとに久し振りにぐっすり眠った。正直、俺は何処で寝ようと何時に寝ようとどんなに酔っていても、今自噴がどんな状況で寝ているのか、夢の中でどんな夢を見ているのかそれをどう感じているかは、寝ていても自覚している。
しかし、それが何も無かった、のだ。いい睡眠だったと言えばそうだが、野武士としては迂闊だった。
人間は、人間の未来である
風船一揆が無事に終わった。
無事、と言うのは誇張ではなく、23日の朝に神の微笑みのような晴れ間に飛べて、その直後凄まじい風が吹いた。2日間の嵐は富山や各地方に大きな被害を齎したらしい。一生懸命やっているから、天がチョットだけ飛行を許してくれたのだとしか思えない。
中の一機が風を読み間違え信濃川を越え山に向かった、との連絡が入った。何年か前、同じ方向に飛んで行き深い雪山の木に引っかかった気球があった。奇跡としかいい様が無いが、たまたまその奥の雪山で前日に雪洞を掘り一晩中酒を飲んで居た2人の男が、俺は今も神様だと思っているが、遭難気球を目撃していてくれた。もしあの時神様が居なかったら、彼女は完全に凍死していただろう、と思う。無線と携帯と彼らの目で場所を確認し、警察を頼み、県会議員を動かし、県警のヘリに夜間出動してもらい、燃料切れの瀬戸際で救出できた。現場の責任者として、6時間ぶっ続けでどなりまくり、拝み続け、一人の若い女性の命を繋ぎとめた。
山に向かった気球は、その時の気球と同じだ、という。思わず天を仰いだが、同じ失敗は無かったようだ。高度を上げ、栃尾まで逃げ、嵐の前に撤収できたという。
もう、パーティにだけの参加になってしまったが、古い仲間達と豊かな時間を過すことができた。
「人間は、人間の未来である」はアンドレ・マルローの言葉と記憶していたが多くの人たちが使っていたようだ。詩人フランシス・ポンジュ、サルトル・・・。人は思い描いた自分になれる・・・中村天風にも通じるものがあるように思える。楽観的かもしれないが、楽観は意志に属し悲観は感情に属するとの言葉を思い出せば、人は意思により自分の未来を創ることができるのだろう。
誰かに好かれることも、誰かに褒められることもそんなことは何も期待してないが、時間を忘れて飲める仲間ってのはいいものだと思う。
人間の最大の武器は、信頼なんだ
昨日は一日中ベッドに潜り込んでいた。
バリと寒波の温度差に、さすがにこの老体は対応し切れんかったようだ。バチが当たった・・・?
文春3月号の武田邦彦の「日本よ、『京都議定書』を脱退せよ」は我々が原罪を感じている環境問題は、実は巧妙に仕組まれた国際的なゲームなんだという視点は大切なんだろう。物事をナイーブに受け止めてだけ入られないようだ。同氏の著書「環境問題は何故ウソがまかり通るか」はベストセラーだそうな。一読の価値ありと見た。
「ローマ法王と昭和天皇の出会い」ヨゼフ・ピタウも面白かった。ヨハネ・パウロ?世に身近に使えた著者が法王の神に仕える厳しさと温かさを伝える。「最期の一呼吸まで」自らに課せられた任務を全うしようと言う姿勢には感動した。 パーキンソン病を老いた身に抱え、それでも尚「キリストは十字架から降りられましたか」と自らの重荷を下ろそうとはしなかったという。
俺は逃げていたのかもしれない。俺はもっと大きな荷物を背負わなくてはならないのかもしれない。厭だなぁ、そういうの。
タイトルの「人間の最大の武器は、信頼なんだ」は麻木久仁子が書評を書いている伊坂幸太郎の「ゴールデンスランバー」で主人公青柳が逃走で追い詰められた時に口にする言葉、なんだそうだ。
俺にも社運を賭けた闘争の中で、お互いに組織の存亡をかけ、生かす殺すの大喧嘩した仲間がいる。結局ドローに終わり、何も実らなかったけれどその後も時折酒を飲み交わしている。男が酒を飲む仲間、ってのはそんな相手が一番いい。
第32回風船一揆
バリから帰ったら、柏崎は今年一番の冷え込み、とか。30度を超える温度差は老体に堪える。
あれこれと時間が過ぎて来週は「第32回風船一揆」。仕掛け人という立場で読売新聞の取材を受け、古い話を思い出しながら2時間も話し込んでしまった。話し切れないいっぱいのことが思い浮かび、夢中で過した自分の青春時代? 当時もう30歳を過ぎていたけど、俺にとって正に青春時代の真っ盛りではあった。多くの仲間達と同じ夢を追いかけられたのは、今考えても豊か過ぎるほどのいい時間だったと思う。
まだ思い出の中で過すには早すぎるけれど、あの頃が今の自分を支えているのだろう。
来週は小千谷の雪原で、ビールでも飲みながら大勢の仲間達に合いたい。太平洋で行方不明になった神田道夫さんの情報も聞かれるだろう。もう生存は期待できないだろうが、せめて情報だけでも欲しい。
バリ
身体の中を吹き抜けてゆく風に時間を預けて波を眺めていた。バリは雨季で、曇り空の日が多く時折雷を伴った大雨がベランダまで吹き込んでくる。
インド洋から寄せる波は激しく、海岸は茶色に濁っていた。夕陽が見たくてジンバランに宿を取ったのに、残念ながら血の騒ぐような夕陽にも恵まれなかった。
それでも、慰めるように広がる青空はやはり素晴らしく、怒りが次第に溶けて行くのがわかる。やはりこの旅はよかったのだなと思う。
穢れは「ケガレ」気力が欠けてくることを言うらしい。疲れが込んで気力が失せて本来の活力がなくなったとき、「ハレ」と呼ばれるお祭りのバカ騒ぎで、モヤモヤとした「ケガレ」の本体を吹き飛ばしてしまう。民俗学では、集団が生きる為に必要なのその行為を暖かく見つめている。
一躍有名になった岩手県奥州市水沢区の黒石寺の蘇民祭も、ニューギニア高地人の祭りも、無意味に近い人生を生きる為の人間の知恵なのだろう。人は理性だけでは生きられない。なまじ中途半端な脳を持ったがための悲劇を、時には先祖の動物に戻って出直すことで、生きる力を再生しているのだと思う。
現代人は、バカ騒ぎをしなくなって詰まらなくなった。常にキンチョウし、人にもそれを強い、純粋理論が欺瞞を増殖しているように思える。人間はまだまだ動物の方に近いはずなのだ、と思う。
今日は夕方から新潟大学で前原子力委員会委員長藤家洋一先生の「地球環境に調和したエネルギー文明論-自然に学び、自然を真似るエネルギー-」を聴講してきた。人間が、自然に存在する「火」を使うことが出来るようになってから動物から別の生き物になってしまった。現在目に見えない原子力を使うようになって、人間は今度は何処に行こうとしているのか、講義を聴きながら不思議な気分になった。