ペシャワール会
頼んでいた中村哲と澤地久枝の共著が届き、夢中で読んでいる。
ペシャワール会の、中村哲との対談集。
「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」
互いの相手に対し深い理解と尊敬がなければ、こんな対談が成り立つわけがないし、深い。
中村哲さんはクリスチャンであることは聞いていた。
しかし子供の頃、意味も解らず素読させられた論語の教養が根を生やしている。
安岡正篤の本もそうだけど、人を束ねるリーダーの徳を説いている。
群衆は指導者が一つの方向を歩かなければ、バラバラに動き、力にはならない。
中村哲さんが複雑なアフガンの地で、扇の要としての自らの役割を自らに課せていた。
中村さんは死んでリーダーから神になった、と思う。
だが人を束ねる生身の指導者はどうするのだろう。
この辺は後で本からそのまま拾う。
澤田悦枝氏を高群逸枝氏を同一人物をと間違えていたようだ。大きな迷惑だね。
高群逸枝の女性解放史の本は理論社でたくさん売れていた。
こんな分厚い難しい本を人はよく読むなと、お茶の水の東販や日販に自転車で運んでいた。
昨日リケンの北斗会で川上元明さんと一緒になり、全学連華やかなりし頃の話に夢中になり些か飲み過ぎた。
彼は日大全共闘のリーダー秋田明大の友人で、お茶の水解放区に青春を燃焼させた一人だ。
東大全共闘の山本義孝の名も浮かぶ。安田講堂。
雪国大和町病院の黒岩卓夫さんの樺美智子さんの話も記憶から去らない。
青春を燃焼させた人たちの思い出は懐かしい。
戻ってきた喜多郎
CDアルバムの中から「敦煌」を見つけ、嵌まってしまった。
何だろう? この体の中に浸み込んでくるような喜多郎の調べは !
NHK「シルクロード刺繍の路」に夢中になったのはもう40年も昔のことだ。
昨日見たウランバートルのマンホールチルドレンに惹きつけられ、モンゴルの草原を思い出し、連想はシルクロードに飛び、タクラマカン砂漠の敦煌に行き着いたのかも知れない。
そう言えば西田敏行、佐藤浩の「敦煌」ももう一度見たい。
喜多郎の「敦煌」は夜が近付いてくる夕暮れ時がいい。
西の空を見ながら・・・こんな時間もいいもんだ。
夜中になって宗次郎の「大黄河」を飽かず聴いている。
壮大な中国史を生きた名も無き人達の日常が目の前に広がってくるようだ。
安岡正篤の孔子の時代に引き込まれているのかも知れない。
人間愛すべし
中村哲さんの言葉が沁みる。
「人間は愛するに足り、真心は信ずるに足る」
マンホールチルドレン
マンホールチルドレン
その言葉が迫ってくるのはモンゴル ウランバートルの話だからだろう。
家庭が崩壊し、親に捨てられた子供たちが生き延びるためにはマンホールしかなかった。
NHK-BSの「マンホールチルドレン ボルトとダシャ 20年の軌跡」に言葉は要らない。
良くぞこれだけの映像を追いかけ、残し、最良の文学作品に仕上げたと驚嘆する長編。
もう35年近く前、ウランバートルで国際気球大会が開かれ、高本と俺が日本代表で空を飛んだ。
人民広場から飛び立ち、ジンギスカン・ホテルから離陸し、広大な草原を超え、草原に降りた。
ウランバートル市長の歓迎会で強かに酔い、モンゴルに酔っていた。
その町にこんな現実があることに思いもよらなかった。
モンゴルの、高本の友人たちは立派なアパートに住んでいたんだもの。
貧乏は人を育てるという。
安岡正篤の孔子を読んでいたら、貧窮した家に育ち、苦労して自立したという。
まだ読み始めたばかりだけれど、論語が人を引き付ける魅力のもとはそんな環境から得たものなんだろう。
孔子の生涯を追った宮城谷昌光の「孔丘」も読んでみたくなった。
セテウスの船
テセウスのパラドックスとも呼ばれ、ある物体の全ての部品が置き換えられたとき、基本的に同じであると言える(同一性=アイデンティティ)のか、という問題で、ギリシア神話から来ているらしい。
よく解らないが、19日BSNのこのドラマは面白かった。
現代から北海道の音臼村で起きた無差別殺人事件の時代、平成2年にタイムスリップし犯人とされる警察官の子供が過去を変えようとする話。
先日の戦後ゼロ年東京ブラックボックスも同じような設定ではなかったか。
昔、光より早く移動できれば時間を遡ることが可能だ、なんて話があったかと思う。
人間は時間という不思議な世界を流れている。
流れる水は同じように見えて、しかし同じ水にあらず。どこかで読んだ記憶がある。
だから、どんなことも一度起きてしまったら後戻りはできない。
当たり前のことだが、だから人生は面白いとも言える。
いちいち巻き戻してやり直していては、やってられねえよ。
これ、AIによるコンピューターの世界にも言えるのかも知れない。
いや、コンピューターは巻き戻しができるか !
安岡正篤-論語の活学
柏崎のさる人から「お前、安岡正篤を読んでいるか?」とけしかけられた。
忘れかけていたが、思い出して本棚から「安岡正篤-論語の活学」を発見し?、開いてみたがやはり読んだ形跡はない。
他人は兎も角、俺は自分をクソ野郎だと思っているから、立派な人は嫌いだ。
世の中を生きて行く時、いろんな人たちを見極める目が必要なんだろう。しかし、世の中が退屈するほど暇なとき、形にはまった先人の学問は役に立つだろう。現代は秒針まで早くなっている。そんなとき人も変わるし、自分も変わる。
欲だけで生きる人は、好きになれない。
人間である以上私心を捨て去ることはできないが、私心のない人は尊敬できる。
中村哲さんもその一人だろう。
中鯖石治水の碑には、暴れ狂う鯖石川に私財を捨てて取り組んだ人たちの勲が刻まれている。
春になったら、近くの酒屋で一杯飲みながらそんな昔話を語合う会を企んでいる。