善根の灯り
雪暮れて八石朧(おぼろ)に静まれり 如風
午前中は太陽が覗いていたので海岸線を出雲崎までとばしてきた。波は静かで珊瑚礁を思わせる海もあった。
やらねばならないことは山積みながら、白い世界に青空が見えると自分を制御できなくなる。
夜になって、なぜか急に「雪の降る街を」の歌詞が浮かんできた。内村直也作詞・中田喜直作曲 ダークダックス、いやデューク・エイセス?だったかなぁ・・・の歌声が聞こえてきそうな夜だ。
雪の降る街を 雪の降る街を
想い出だけが 通りすぎてゆく
雪の降る街を
遠い国から 落ちてくる
この想い出を この想い出を
いつの日かつつまん
温(あたた)かき幸せのほほえみ
雪の降る街を 雪の降る街を
足音だけが 追いかけてゆく
雪の降る街を
ひとり心に 充(み)ちてくる
この哀(かな)しみを この哀しみを
いつの日かほぐさん
緑なす春の日のそよ風
雪の降る街を 雪の降る街を
息吹(いぶき)とともに こみあげてくる
雪の降る街を
誰もわからぬ わが心
このむなしさを このむなしさを
いつの日か祈らん
新しき光降る鐘の音(ね
冬の晴れ間
昨日は一日中、降雪。
今日は一転、晴れ間が拡がる。
青空に誘われて「じょんのび村」に行ってきた。
車の温度計は4度、道路の雪も融け、安心して走れる。
だけど、温かい陽射しを受けた雪原に「ウサギの足跡」は見えない。見えなくなって久しいけれど、昔は至る所にウサギはいて、山スキーで山鳥、雉を見ることも多かった。
最近は道路で車に轢かれた動物の死骸を見ることも少なくなった。夏の虫も少なく、それはそれで助かるのだけれど、カエルも蛇もいなくなった。時折、雀の群れが庭に舞い降りてくるが、餌をやろうとすると飛び去ってしまう。
こどものころ、仕掛けを作って雀を捕ろうとしたことが彼らの中で語り伝えられているのか・・・。
雀百まで、わしゃ九十九まで・・・まだまだ遊び盛り !
新潟県電子機械工業会 新年号原稿
新年明けましておめでとうございます。
平成26年、今年は午年。何回目かの年男で、どんな年が待ち受けているのか期待半分、不安半分、面白半分で楽しみにしています。
さて、今年は東日本大震災から丸3年に成ります。地震と津波に壊滅させられたあの光景は目に焼き付いていますが、原発から20km地点に設けられた南相馬の福島原子力発電所への検問所には大きなショックを受けました。
柏崎原発も中越、中越沖地震と続く震災にやられたけれど、「大事」には至らず、自分の中で安全神話は生き続けていたようです。
「チェリノブイリ ⇒ スリーマイル ⇒ カシワザキ」との暴言を吐き顰蹙を買っていた事もありましたが、それが「フクシマ」で現実のものになってしまった。
やはり柏崎刈羽原子力発電所の軒下に棲む者として、当然ながら単純な話ではない。
「核」の平和利用には考えられる限りの安全技術が使われているのだろう。ただ「フクシマ」の後、「想定外」という言葉から現実に引き戻された。経済事情により、技術事情により物事を解決するには限界がある。想定値を超えた災害が発生した時、人は自然災害なら「神の祟り」と諦めることも出来る。しかし、人間の手が加わったものならば、そう簡単にはいかない。
本音を言えば、柏崎刈羽原発は再稼働して欲しくはない。しかし、日本国という我らが祖国のためになるならば、次の安全な発電が出来るまで、ある期間は耐えよう。
しかし、柏崎刈羽原子力発電所の灯りを見ながら時折考えることがある。核燃料の代わりに、目の前に拡がる「海のエネルギー」を使えないものかと。海は世界に拡がっている。柏崎は石油、原子力と続くエネルギーの町である。
「海」を次世代のエ新しいネルギー源として活用する世界的な研究・実験・実現都市・柏崎の再生が出来ないのか。
午年の初夢。