百日紅

2011年08月14日 風の戯言


 休日なので寄り道しながら帰路についた。
 鵜川から芋川を抜けてぶどう村に抜けようとした時、お盆だけれど、人の気配の消えた古屋があり、よく見れば廃屋なのだろう、窓は落ち壁が下がっていた。
 その庭に百日紅が満開の花を咲かせていた。不思議なバランスが何かを訴えているようで、やがて消えさる者のうめき声のようなものかもしれない。多くなった。

 

実りの秋(とき)を待つ

2011年08月13日 風の戯言


 お盆休みに入った。

 今年は3日の休みしか取れないが、それでもゆったりとした気持ちで過ごせるのはやはり長い地域の習慣によるものなのだろう。
 昨日は会社の納涼会で、歳を忘れて「イッキ!」を繰り返していたらさすがにダウン。珍しく、昨夜は帰宅後台所の床に転がって寝たらしい。何の証拠もないのだが…。

 墓参りも済ませ、静かな「時」を楽しんでいる。

トイレの神様

2011年08月08日 風の戯言


 かつて石塚家には厠を祀る習いがあった。
 藤原-佐野-石塚の流れをくみ、滝川一益に攻められ館林錠が落城した時に、敵に追われて越後まで落ちのび百姓家の便壺に身を沈めて難を逃れた、という臭い伝説がある。
 もう逃げられない、という意味でその土地の名を「行きかねた-行兼」に改めたとか、臭く怪しげな言い伝えではある。
 
 古い記憶を掘り起こすと、格式ある寺の様ながっしりしたつくりの正面玄関の左側に「上の便所」があった。来客用のトイレだったのだろう。

 トイレに今朝、神様が降りてきた。

 早くウンコして会社に行きな ! そんなところか?

夏坊主

2011年08月07日 風の戯言


 子供の頃は簡単に海に行けなかった。
 自転車は無いし、バスは人の乗り物であり、海がどこにあるか知らなかった。山の上に上がれば箱庭のような街が見え、その先に青い海があった。
 だから夏休みの臨海学校は、場所は番神海岸で、花火は岬館の坂で見た。興奮し自己制御できなくなった自分は全く別人になってしまっていた。そんなことが多々あった。
 中学校に入ったら、多少知恵も発達してき、バンガロー村に城を据え水族館や量たちをあおって何かやろうとしていた。人間思ったことを突き進めば必ず道は開かれる。今も小名譲菜幼児性の中にいる。遠い、遠い、涙が滲んで見えなくなるように遠い 去りし青春時代

 八国峠からは柏崎の町並みと海が見える。
 大きな夕陽が米山の脇に沈んでゆく。
 空一面の夕焼けと明日の幸運を約束している。

風の吹くままに

風の戯言


 久しぶりに宗次郎の「大黄河」を聴いている。

 歴史を学ぶことは未来を知ること、だと何かに書いてあった。人間が何を求めてきたのか、それが解れば未来を推察できる、と言いたいのだろうが、そう簡単ではないだろう。
 人類の歴史の中で、インターネットなるものがこれほどの力を持つと誰が予想しただろうか? 今日の「情報通信」という言葉の重さと同時性を誰が予想しえただろうか?

 「大黄河」を聴きながら老子・荘子を開くのも悪くはなさそうだ。こんなのがあった。
 「古の真人は、生を説ぶ(よろこぶ)ことを知らず、死を悪む(にくむ)ことを知らず、その出を訴ばず(よろこばず)、その入も拒まず、悠然として往き、悠然として来るのみ」と大宗師篇」にあるとのこと。生を悟りすぎたら面白みがない。大言壮語し、支離滅裂に苦悩と悲惨の中で七転八倒して生き抜くのも、楽しいのかもしれない。

 写真は野尻湖から黒姫山?を望む。

   静けさに心のさざ波報られしか     草風