銭もなき身にも哀れは・・・秋の夕暮れ
11月も半ばに近づき、秋は足早に過ぎていく。何を望むでもなく、何に怒るでもなく、焦点の合わないまま落ち葉を眺めていると、心が満ちてくる。秋の、雨の日曜日の夕暮れは、人を正気に戻してくれるのかも知れない。
早々と庭の雪囲いも終わり、柿の木に柿の実がなり、畑には取り残したナスが雨に打たれている。晴れた日には遊びに来る小鳥達も、今日は姿を見せない。
2階の窓からは、公園の公孫樹の向こうに山頂を霧に包まれた八石の山が見える。見飽きない風景。
この谷に生まれ、この谷で朽ちて行くであろうこの身は精一杯に生きたのか・・・。もう少し時間があるようだ。
銭もなき身にも哀れは知られけり
花街遠き秋の夕暮れ 詠み人知らず
法句経(ダンマパダ)
こんな教えがある。
「もしも愚か者が、
みずから愚かであることを知るならば、
すなわち賢者である。
愚か者でありながら、しかも自らを賢者だと思う人こそ
愚か者だといわれる」 六三
また
「愚かな者は、自分にありもしない尊敬を得ようと願う。
修行僧の間では高い地位を望み、僧院にあっては支配権を望む」 七三
「私は知っている」
と言う人には、教えてくれる人は現れない。
「自分は仕事が出来て、凄いのだ」
と言う人には、協力する人は現れず何時か必ず失敗する。
「私は正しいわけではない」
「自分はどこかで間違いを犯すかも知れない」
自分は愚か者だと気がついている人は、日々学ぶことが出来る、といわれている。
他人に「馬鹿だ」と言われるとムカッ腹が立つ・・・この矛盾が人間なんかな・・・。
唐招提寺
何故か急に鑑真和上にお会いしたくなって唐招提寺を訪ねた。修理中の金堂をすり抜け鑑真霊廟に急いだ。
「天平の甍」にあるとおり唐で既に高僧であった鑑真が何故5回の難破を乗り越えて失明までして日本に着たのか、何時かまたその心に触れてみたいと思っていた。
霊廟の前で一人の男が、廟に何事かを語りかけまた沈黙していた。この男も迷っているのだろう。
初期仏教の法句経「ダンマパダ」にこんなのがある。
「全てのものは無常である」(諸行無常)と
明らかな知恵を持って観るときに、
人は苦しみから遠ざかり離れる。
これこそが人が清らかになる道である。
人は生まれ、人は死ぬ。
たったそれだけのことに思い至ると、心は静寂になる。
全ての真理が見えてきて、生きる勇気が湧いてくる。